■スペンサー博士について

メールで反応をどうぞ。伝言板に反応をどうぞ。

 

◎「スペンサー博士と彼の知への欲求」
  お孫さんのスペンサー氏から一部を転記して送っていただいたものをボクが翻訳したものです。組織名などには自信がありませんので,アドバイスをお願いします。
 抜けていた部分を入手し,ようやく翻訳できましたので,付け加えます。まだまだ翻訳に怪しいところが多いので,これからも調べていきます。(8/19)
 翻訳を見直しました。(9/3)

 

『リーダーズ ダイジェスト』1958年8月号より

いかにして独学のメーン州の農家の少年が,強い好奇心に満たされて,複雑な電子工学の分野で今日もっとも尊敬される技術者となったか

「パーシー・スペンサーと彼の知への欲求」
ドン・マーレー

 パーシー・スペンサーは,私が知る人の中で一番のせんさく好きです。彼は63歳にして今もなお,まわりの驚異に満ちた世界を探索しようとする少年の衝動を持ち続けています。彼のそうした好奇心が生み出したものが,私たちの生活に影響を与えてきたのです。

 先日私はマサチューセッツのウォルサムにあるレーセオン社の彼のオフィス,そこは我が国のもっとも大きな電子産業のひとつの副社長室としてお似合いのオフィス,を訪ねました。「やぁ,ドン」机の影から,がっしりした体格の袖付きのシャツを着たメーンからきた男が叫びました。「その靴はどこで買ったんだい?」

 私のモカシンの靴は変わったものじゃないのですが,私には彼のいいたいことがわかりました。「その靴は快適かい?」と彼は聞いたのです。「長持ちするかい?」「なんでそんなふうに縫われているんだい?」すぐに私は,彼がよく調べられるようにと片方の靴を脱ぎました。彼は,その靴がどんな風に作られているか知りたかったのです。

 物語は,現代電子工学の奇跡の世界へ誘うパーシー・スペンサーの直感的で気さくなアプローチの典型です。1946年のある日,彼はレーダーに使うマグネトロンを試験している研究室を訪れました。彼は,ポケット中のピーナッツ・バーが突然溶け始めたのに気がつきました。この現象には,他の科学者たちも気がついていました。でも,彼はもっとよく知りたかったのです。

 彼はポップコーンの原料を買いに使いを出しました。そして,マグネトロンの近くにそれをおくと,ポップコーンは破裂して研究室じゅうに散らばりました。次の日の朝,彼は横に穴をあけて,生卵を入れたやかんを持ち込みました。それから彼は,マグネトロンをやかんの穴に向けて置いて,スイッチを入れました。やかんをのぞき込んでいた疑り深いエンジニアの顔全面に卵が飛び散りました。その理由ですか?黄身が白身よりも早く固まるので,爆発してしまうのです。

 スペンサーは,高周波の電波が調理に使えることを発見しました。彼は,彼が所持する225の特許のうちのひとつである「電子レンジ」の特許を得ました。この新しい調理器具は,サーロインステーキを10秒で調理し,感謝祭の七面鳥を30分ちょっとで仕上げます。電子レンジは,レストランや食堂車,旅客船などで使われ,今では家庭用となっています。

 この不断の好奇心が彼を,恵まれない少年時代から恵まれたものへと導きました。彼はメーン州ハウランドの田舎で産まれ,子ども時代に2度父親を失いました。彼の父親は彼が1歳半のときに亡くなり,彼の母は彼を叔父叔母のところに預けて家を去りました。この叔父は彼にとっては父親同然でしたが,彼がまだ7歳のときにこの世を去ってしまいました。

 彼は悲観に明け暮れて時間を無駄にするようなことはしませんでした。彼は田舎の少年が身につけねばならないこと,木の切り方,耕し方,鞍の置き方,貯蔵の方法,鹿の皮のむき方,鋸をまっすぐ引くことのような生存のための問題を解決する手っ取り早い方法を学ぶので精一杯だったのです。

 彼が12歳のとき,彼は夜明けの薄明かりの寒風の中,糸巻き工場に向かい,日没まで働いていました。4年後,彼の好奇心は何か新しいことへと彼を誘いました。地方の製紙工場が電化される予定でした。彼には電気に関する正式な知識は何もなかったのにも関わらず(1910年では,ほとんど誰にもそんな知識はありませんでした),システムを導入する3名のうちのひとりとして入社しました。そこで全くの試行錯誤で学ぶことにより,彼は有能な電気技師になっていきました。

 タイタニック号が沈んだ1912年のこと,彼は無線技師に憧れるようになりました。彼は無線技術を学ぶために海軍に志願しました。海軍が彼を無線技師養成所に送ったとき,彼は自分の学歴がないことについては何も語りませんでした。「山ほどのテキストブックを抱えて,夜の見張りに立つときにひとりで勉強していたものです。」と彼は明かしています。

 彼は,彼が「自分自身の立場で解決して行く」と呼んだ独学の習慣を生涯続けました。三角法,計算,化学,物理学,冶金などの課題を苦しみながら解いて過ごした夜がいくつあったかは,数えられないほどです。

 海軍を除隊してから,彼はボストンのWireless Specialty Apparatus =無線装置)会社で働きました。スペンサーの有り余る好奇心は,今もなお彼の同僚たちによって記憶されています。当時は,注文をさばくため,職場全体が真夜中まで働くこともしばしばでした。他のみんなが帰社した後でも,彼はその日の製品をテストし検査するために居残りました。「朝になってみんなが出社する頃になっても,彼がまだそこにいました。」彼の友人の一人は,そんな思い出を持っています。「彼は,どのような仕組みでものが動作するかを解き明かそうと徹夜していたのです。」

 彼はよく学んだので,第一次世界大戦のときには,無線機器製造部門の責任者になっていました。そして投票権を得る歳になったときには,彼は海軍の故障修理に派遣されていました。そのとき,1920年代後半から1930年代にかけて,彼は成長しつつあったレーセオン社の社員とともに働いていました。また彼の様々な実験を通して,彼はマサチューセッツ工科大学の多くの物理学者と接触するようにもなっていました。そのうちの一人は,私にこんなことを言いました。「スペンサーは,世界でもっとも優れた真空管デザイナーの一人だ。彼は,イワシの缶詰の缶からでも真空管を作ることができた。」

 1929年,彼は小さな漏洩があることが明らかにされた光電管の実験をしていました。他の多くの科学者たちは,光電管を使うことを諦めましたが,スペンサーはそうしませんでした。漏洩の結果を知りたい欲求で,すぐに彼は光電の質を10回にわたって改善することに成功しました。これは,現在のテレビカメラ用光電管の開発につながる主要な第一歩でした。

 1939年にナチスがポーランドに侵攻したとき,パーシー・スペンサーは缶詰状態にありました。それからの7年間というもの,彼は日曜日も休暇もなしで働き通したのです。レーセオン社の彼の電力増幅管部門は,15人の従業員が終戦時には5000人以上にまで増えるほど拡張されました。彼は多くの社員を訓練するだけでなく,最新の装置を求めて闘い,素材についての先取権を主張して,新しい建物の建設までさせました。

 主として伝説的なまでの彼の技術と精巧さにより,彼は国中の科学者が動員されていたマサチューセッツ工科大学放射線研究所の戦闘レーダー生産契約をレーセオン社に勝ち取らせました。それはマンハッタン計画に次ぐ第二次世界大戦での軍事的最優先事項でした。

 イギリスの戦い(1940年英国上空で行われた英独空軍による空中戦)の最中,アメリカは英国よりマイクロ波マグネトロンのモデルを入手しました。マグネトロンは電力増幅管であり,レーダー装置の心臓部であるので,これは潜在的に大変有効性のある兵器でした。問題は,どうやってそれを大量生産するかでした。真空管は1万分の1インチ以上の精度で銅から加工される必要がありました。それは,たったひとつを仕上げるのに,熟練の機械工でも一週間もかかるものでした。そして,それをドイツ空軍に対抗するイギリス空軍のために何千も作る必要があったのです。

 スペンサーは,彼自身と彼の部下たちが生産を早められるように努力しました。彼の最初の製品(原文は”maggies”)が英国に送られたとき,英空軍の撃墜率が急上昇しました。戦争に入ったときには,ドイツ軍の潜水艦の潜望鏡にねらいを定めるのに十分役に立つスペンサーのレーダー装置が15台アメリカの爆撃機に取り付けられていました。それらは驚異の性能を実証しました。

 スペンサーは,一日に百回もできた製品について文句を浴びせました。彼はまだ満足していなかったのです。彼の工場でのひとつひとつの失敗について,彼は生産向上の方法を模索していました。そしてついに,彼は解決策を見つけたのです。

 硬い金属でマグネトロンを彫る代わりに,どんな未熟な工員でも扱える機械を使いました。その機械は,銅と銀はんだを使って真空管のクロスセクションを薄く打ち抜き加工するものでした。それらは交互に一方の先端が他方へと積み上げられて,彼が設計した巧妙なベルトコンベヤでひとつの部品へと作られていきました。この新しい方法の結果,驚くべきことにマグネトロンの生産は,一日に2600個へと増大したのでした。

 それから彼は,マグネトロンの効率を飛躍的に高めることに成功し,戦闘時のレーダーの効果がはるかに増大するように設計しました。この業績により彼は,海軍が民間人に与えることができる最高の名誉であるthe Distinguished Public Service Award=特別民間協力章?)を受賞しました。

 この偉業について語りましょう。マサチューセッツ工科大学の科学者の一人が私に,スペンサーがどんなふうに研究していたのかを語ってくれました。「教育を受けた科学者は,多くの試みが無駄であることを知っています。しかし,パーシーはそれを知りません。彼はエジソンのように,切り離しては張り付け,試みては投げ出して,そしてまた試みるのです。」

 戦争後も,スペンサーは彼の工場の視察を欠かしませんでした。彼は,みながやっていることに首を突っ込み,それを切り張りしたり投げ出したりしていました。彼はマグネトロンの改良を続けて,メイヨー病院(Mayo Clinic)の協力でマイクロ波透熱療法装置を発明しました。彼は戦後の経済転回の中でも,レーセオン社の彼の電力増幅管部門を黒字に維持しました。彼は毎朝夜勤が明ける7時前に工場に出かけました。彼は彼のオフィスにやってくる夜勤の労働者に熱心に話しかけます。「私がみなさんのことを気にかけているということを知っておいて欲しいのです。」彼はいいます。「みなさんが夜働いているとき,誰もみなさんが何をやっているかなど気にかけていないと思っているでしょう。でも,私にはわかります。私もそうして働いていたから。」

 スペンサーは,従業員ひとりひとりに対して強い関心を持っています。ある日彼が工場を視察していると,新しい従業員が部屋の中でもずっと帽子をかぶっているのに気がつきました。彼がはげであることに気がついたスペンサーは,「ついてきてください」と彼に声をかけました。彼はレーセオン社の社長であるアダムスの社長室のドアを乱暴に開けて,社長を驚かせました。アダムス社長は,彼の曾々祖父の合衆国第2代大統領と同じく,また曾祖父の第6代大統領と同じく,はげでした。「見なさい」スペンサーは大きな声で言いました。「彼は髪の毛がないことを恥じてはいません!」

 パーシーを子どもの頃からよく知るバンニバル・ブッシュ博士は,スペンサーのいくつかの物語にくすくす笑いをしながら,私に「あの素朴なメーンからきた男を見くびってはならないよ」と警告しました。「彼は国中の物理学者たちから尊敬されている。それは彼の発明の才能のためだけではなく,彼が物理学を肌を通して吸収したことによる。彼は,単なる優秀な実験家であるというだけではなく,優れた設計技師でもあった。彼は,自分の努力だけで,とても難しい分野の第一人者となったのだ。」

 スペンサーの才能は,公的にもよく認められています。今や彼は,アメリカ学士院の特別会員(fellow),電波技術者協会(Institute of Radio Engineers)の会員(member)であり,マサチューセッツ大学からは名誉理学博士の称号(honorary Doctor of Science degree )を受けています。これらの栄誉は,今日の複雑化した科学界では特別な意味を持ちます。パーシー・スペンサーは,義務教育すら終えていないのにも関わらず,行動について責任を持ち,何が起こっているかを知りたいと思う人間の理解を超えるものなど何も存在しないことを証明したのです。


 転記:Rod Spencer
 翻訳:丸山 秀一

 ロッド・スペンサーさんの好意により,伝記についての部分とスペンサー博士のスケッチを彼のホームページに掲載してもらうことになりました。下記のホームページです。(8/16)

 http://members.aol.com/spencerlab/history/readdig.htm

 

ここをクリックすると最初のページに戻ります