■満州国 資料のページ

 満州国という国がかつてありました。それはどんな国だったのでしょうか。それとも名前だけで国とは言えないものだったのでしょうか。その研究のための資料ページを作っておきます。


■文献

1 原康史『激録日本大戦争』東京スポーツ新聞社 1993 全39巻の本。読みやすい。
2 『別冊1億人の昭和史 日本植民地史2 満州』毎日新聞社 1978 タイトルには「植民地史」とあるが実際は写真集。紙幣のカラー写真もある。
3 黄文雄『満州国の遺産』光文社 2001 「自虐史観」を糾弾する本。
4 秋永芳郎『満州国 虚構の国の彷徨』光人社 ノンフィクション
5 昭和8年『朝日年鑑』付録 「満州国大観」 役立つデータ集
6 南満州鉄道株式会社 「満州国地図」 200万分の一のカラー地図。
7 原子昭三『「満州国」再考』展転社 2001.8.15 これも「自虐史観」糾弾の本。
8 H・シュネー 『「満州国」見聞記―リットン調査団同行記―』新人物往来社 1988 これで「調査」とは・・・。問題意識がないとこうなるのかなぁ。
9 児島襄 『満州帝国 全三巻』文藝春秋 1975 分量があるので,他では得られない資料もある。
10 坂本龍彦『孫に語り伝える「満州」』岩波ジュニア新書 1998 第1章が予想外によくまとまっている。とてもよい。
11 太平洋戦争研究会 『図説 満州帝国』河出書房新社 1996 他の文献にはない資料もある。
12 武藤富男『私と満州国』文藝春秋 1988 著者は満州国司法部刑事科長。善意と正義で動いていた日本人官吏。
13 山室信一『キメラ 満州国の肖像』中公新書 1993 大変よい。お勧め。
14 久保尚之『満州国の誕生 日米摩擦のはじまり』丸善ライブラリー 1996 ちょっと観点が違う
15 『満州国最期の日』別冊歴史読本 戦記シリーズ19 新人物往来社 1992.8 「戦争の悲惨さを訴える」という感じ。
16 藤本治毅『石原莞爾』時事通信社 1964 これは驚き,「ヨイショ」の本である。帯には「すべてを描く」とあるが一部しか描いていない。
17 花輪莞爾『石原莞爾独走す 昭和維新とは何だったのか』新潮社 2000 「昭和維新」の本。引用ばかりと比喩的表現が多くよくわからない本。
18 山川暁『満州帝国の誕生』学研M文庫 2001.10 簡潔にまとまっている。
19 『満州の記録』集英社 1995 満州映画協会製作のニュース映画などからの写真集。実写であるから実に迫力がある。ここからおもしろい旗を発見した。
20 石原莞爾生誕百年祭実行委員会 『永久平和への道』 原書房 1988(非売品) これも露骨な「ヨイショ」本。しかしおもしろい資料もある。
21 小松茂朗 『陸軍の異端児 石原莞爾』光人社 1991 軍隊の中での石原が描かれており,なかなかおもしろい。しかし内容は23と全く同じで盗作である。
22 野村乙二郎『石原莞爾 一軍事イデオロギストの功罪』 同成社 1992 「功罪」というより石原の思想背景について研究した本。
23 横山臣平 『秘録 石原莞爾』 芙蓉書房 1971 いろいろな本の種本。著者は石原と同期の元陸軍中将
24 今岡豊『石原莞爾の悲劇』芙蓉書房 1981 参謀本部での石原を描く。何が悲劇なのかはよくわからない。
25 佐高信『黄砂の楽土 石原莞爾と日本人が見た夢』 朝日新聞社 2000 徹底的な石原批判の本。「満州事変を起こしたのだから悪いに決まっている」となんでもかんでも悪く書いている。
     


■満州国

◎国旗・国歌

 満州国は中国の東北地方に1932年から1945年まであった国です。では国旗や国歌はあったのでしょうか。









by Mark Sensen(FOTW)



 五色は何を表しているのでしょうか。


 これとそっくりな旗がありました。




by Mark Sensen(FOTW)

 中華民国1912-29








◎面積

 満州国の面積は日本と比較してどれぐらいでしょうか。

予想

 ア 日本と同じぐらい
 イ 日本の倍ぐらい
 ウ もっとおおきい




 日本の約3倍の面積です。



◎満州国の建国宣言を出したのは誰か

 関東軍?日本政府?それとも?


 1932.3.1に「東北行政委員会」が宣言。メンバーは,東北地方の4大軍閥が中心で,代表は張景恵。


 


◎人口

・戸籍はあったか

・人口変遷


◎政体

予想

 ア 立憲君主制
 イ 帝政・王制
 ウ 共和制



◎憲法


◎国会


◎教育


◎赤十字に加盟していたか


◎承認した国


◎政治機構

 省庁の長は満州人だったか

◎五族

 トップの日本人の割合は

◎戦争

 満州に宣戦布告した国はあるか

◎最期

 満州国はどのように消滅したのか

 ソ連に占領されて
 講和会議によって


◎機会均等

 満州国内での外国資本の割合は均等だったか



■資料

◎文献8より

 韓国併合前の朝鮮ははげ山ばかりだった。併合後日本は植林した。また量質とも日本は朝鮮の稲作を大いに発展させた。そのため日本本土の農家は朝鮮米の流入により大きな打撃を受けた。(要約,144ぺ)

 ―満州国官憲は,1932年秋までに満州内でたんに民政全般を手中に収めたばかりでなく,従来は南京にある中央政府の管轄下におかれていた関税,郵便それに塩税まで掌握するようになった。(186ぺ)


◎文献10より

・1932年,関東軍は「15年間に10万戸の移民」を目標とした「日本人移民案要綱」を作成,政府案として衆議院通過。

 同年第一次移民493人,翌年第二次武装移民455人。

 日本政府1936年「20年間に100万戸」の満州農業移民計画。


・現地反発(抗日軍)の原因

 移民について軍や日本政府は,満州国政府と何の相談や約束もなかった。

 移民のための土地買収は軍機密として満鉄の子会社が担当し,軍事目的(すぐに収穫をあげられるように)のため,未耕作地ではなく耕作地を中心として相場の10分の1以下の値段で強制的に買い付けた。

 1936年以降は満州国半官半民の満拓が担当。これも一方的に移民200万戸分の耕作地を強制的に買い付けた。

 土地を失った農民は,日本移民の小作として働くか,抗日軍に加わった。

 土地買い上げの理由のひとつに「抗日軍隊と民衆の関係を絶つ」というのもあり,強制的に移住させられた農民も多い。(集家工作)
 

◎文献3より

・建国大学

 はじめ「アジアの復興に貢献すべき大学」として石原莞爾が「亜細亜大学」設立の案を出したが,日本陸軍省は「それは日本国内で行われるべきである」として,満州には「建国大学」を設立することにした。

 1938年度から学生を募集した建国大学であるが,定員150のうち,日系75,満州系50,朝鮮・モンゴル・白露系25と割り振ってあった。日系人は応募者1万人。


・承認

―日本に続いて最初に満州国を承認したのは,中南米のエルサルバドルであった。1934年4月,ローマ教皇庁が承認し,37年から38年にかけて枢軸国のイタリア,スペイン(フランコ政権),ドイツが承認し,38年10月,ポーランドも満州国を承認した。
 39年以降には,ハンガリー,スロバキア,ルーマニア,ブルガリア,フィンランド,クロアチア,デンマークといった北欧・東欧諸国が承認した。ドミニカ,エストニア,リトアニアは,正式承認しなかったが,国書を交換した。
 その後,大東亜戦争期にはタイ,ビルマ,フィリピン,自由インド仮政府も満州国を承認した。
 しかし,国際連盟から満州国建国の正当性が否認されたため,承認国は18ヵ国にとどまった。(258-259ぺ)


 「ポーランド,デンマーク」 ドイツが占領

 「ハンガリー,スロバキア,ブルガリア」 枢軸国

 「クロアチア独立国」 1941-ドイツの傀儡政権

 「フィンランド」 ソ連と交戦中

 「ルーマニア」 枢軸国,ドイツと一緒に対ソ戦に参加

 「エルサルバドル」 1937から外交関係,第二次世界大戦では連合国側だが,伝統的に日本とは友好関係あり。

 「スペイン」 当時のフランコ政権は,ドイツ・イタリアの支持を得てできたもので,枢軸側に好意的。

 「ドミニカ共和国」 1956年に移住協定が締結。日本の敗戦後も移民受け入れ。

 「エストニア,リトアニア」  1940ソ連に編入,41年ドイツ占領

 「自由インド仮政府」 ボースが,〈敵の敵は友〉として枢軸側と協力してイギリスと戦うことを呼びかけた。43年6月訪日し,10月には日本軍と協力してシンガポールに自由インド仮政府を樹立して首班となり,インド国民軍を率いてインパール作戦を日本軍とともに戦った

 「タイ」 日本の同盟国

 「ビルマ,フィリピン」 日本が占領





◎文献1より

・建国の方針 1932.1

 「絶対保境安民主義の徹底,国防は日本に委任」「ソ連の南下に対する防衛線」

 理想としては,「満州を満州人に返し,有色人種による五族協和の王道楽土」

 日本政府も満州独立の方針である「支那問題処理方針要項」を決定して閣議も了承。


・建国宣言 1932.3.1

 2.17 東北行政委員会発足 満州の豪族と軍閥の集まり。委員長は張恵景。

 3.1 「国号を満州国と称し,年号を大同元年とする」 首都は長春(3月に新京と改められる)。政体は共和制。溥儀は「共和国執政」

 3.9 執政就任式

 人類は必ず道徳を重んじなければならない。しかし種族の見があれば人を押さえてみずからを伸ばそうとし道徳は薄らぐ。人類は必ず仁愛を重んじなければならない。しかし,国家間の争いがあれば人をそこなって自らを利そうとし,仁愛は薄らぐ。今,我が国を建てるに当たって道徳仁愛を主とし種族の見,国家間の争いを除けば王道楽土を実現させうるであろう。およそ我が国民たるものはこれに努めるように望む。

 首相の鄭孝胥(ていこうしょ)が読んだ。

・日本人官吏の意識

 総務長官駒井「満州は日本人が血と引き替えにロシアから取ったものだ。日本人が満州を作ったんだから,日本人官吏の待遇が良くてあたりまえだ」


・石原莞爾の思い

 日本は血を流した満州を捨てられないと主張し,中国は領土は放棄できないと叫んでいる。この紛争を解決するには満州で日本人と中国人が同志的立場で民族協和の原則を文字通り実現し,政治的にも経済的にも互恵平等の見本のような国を作らなければならんのだ。

 しかるに,新国家建設を日本政府がやっと認めたと思ったら,一ヶ月もたたぬうちに内地の官僚どもが満州人官僚よりも倍も月給を取り,贅沢な官舎に収まるためにやってくる。二。三年の腰掛け人事で,本気で日中協和を考えている奴などいない。こういうのを日本の匪賊というんだ。軍も残念ながらそうなってきつつある。


・立国の鉄則

 機会均等と門戸開放(アメリカの真似)

・公用語

 公文は満州国語と日本語によって発表

 駒井「国籍によらず満州国語と日本語を完全に使用し,満州国の与える待遇に満足する人を歓迎する。これが我々の機会均等である」

・満州国承認

 1932.6.14 衆議院は満州国の承認を満場一致で可決

    9.15 政府が満州国を正式承認。同日「日満議定書」条約締結



 日本国は,満州国がその住民の意思に基づきて自由に成立し,独立の一国家を成すに至りたる事実を確認したるに因り,満州国は中華民国の有する国際約定を満州国に適用し得べき限り,これを尊重することを宣言せるに因り,日本国政府及び満州国政府は日満両国間の善隣の関係を永遠に強固にし,互いにその領土権を尊重し東洋の平和を確保せんがため左の如く協定せり。


1 満州国は将来,日満両国間に別段の約定を締結せざる限り,満州国領域内において日本国又は日本国臣民が,従来日支間の条約,協定,その他の取り決め,及び公利(公共の権利)の契約により有する一切の権利,権益を確認,尊重すべし。

2 日本国及び満州国は締約国の一方の領土及び治安に対する一切の脅威たる事実を確認し,両国共同して国家の防衛に当たることを約す,これがため,所要の日本国軍は満州国内に駐屯すべきものとす。

関東軍司令官兼駐満州国特命全権大使 武藤信義(陸軍大将)

満州国国務総理 鄭孝胥




・国際連盟での松岡洋右演説

 1932.11.21 リットン調査団の報告を受けて


・・・紛争は決して望ましいものではありませんが,我々は1916年から17年にかけてアメリカ合衆国がメキシコに軍隊を送り込んだ事実を,今,想起させざるを得ないのであります。なぜアメリカはメキシコへ軍隊を送ったか。それはメキシコ政府がアメリカ人居留民を保護する能力がなかったからであります。満州の場合も同様であります。中国官憲が反日運動を煽り,その運動は日本の再三の警告を無視して行われ,日本人居留民の生命,財産は危機にさらされたのであります。それによって生じた結果(日本の軍事行動)に対する責任は,中国政府と張学良氏の独立政府が負うべきなのであります。

 欧米はすでにその「汚いやりかた」を恥じる時代になっていたのに,日本は模倣の時代のままであった。


・国際連盟での評決

 勧告の内容

 1.日本軍は定められた駐屯地以外から撤退せよ。

 2.満州における日本の特殊な権益を考慮して,総会は中華民国の行政的保全と両立する自治機関をつくるよう中華民国に勧告する。



 賛成42,反対 日本, 棄権 シャム 欠席12


◎文献11より


・軍閥は五色旗

 1928.12.29 張学良は軍閥から国民政府に下ることを決意。蒋介石は「五色旗をやめて青天白日旗使用するならよい」
        藩陽(奉天)の役所は一斉に旗を変更した。


・満州青年連盟

 1929.1 満鉄社員を中心。自らの生存権をかけて張学良の排日政策を排撃し,満蒙自治,独立を訴える。日本国内でも国民運動を展開。

 五族協和



・統帥権干犯

 満州事変における関東軍の軍事行動は,天皇の命令がなければ出来ないほどの規模であったが,本庄司令官は独断で行った。参謀長はそれを容認。以降閣議で「必要限度を越えないこと」と決定しているのでその通り命令。関東軍は「越えていない」と独走。

 朝鮮軍も天皇の支持なしで堂々と単独に越境して満州に入った。

・独立国家案

 新政権構想では政府・陸軍中央部も関東軍の関与を禁止。
 関東軍占領による軍政を予定。

 参謀本部は1931.4昭和六年度情勢判断 「満蒙問題解決方策大綱」により
 第一段階 親日政権の樹立(溥儀を首長とする)
 第二段階 独立国家の樹立
 第三段階 併合

 関東軍も親日政権樹立に同意。しかし満州事変後各地に自治と独立の動きがあり,関東軍も独立国家案に転換。政府と陸軍中央部は外圧を考慮して,独立国家案には反対。


・王道主義

 自らは軍隊を持たずに民を治める。絶対保境安民主義

 王道とは「専制君主は正義,慈愛,寛容さをもって統治すべき」という中国古来の政治思想。


・溥儀書簡

 1932.3.10 溥儀は以下のような関東軍司令官宛の書簡に署名させられる

1 国防,治安は日本に委託し,その経費は満州国が支払うこと。

2 鉄道,港湾,水路,航空路などの管理や敷設はすべて日本に委託すること。

3 満州国は日本軍が必要とする施設について極力援助すること。

4 日本軍司令官の推薦により,日本人を参議府(執政の諮問機関)のメンバーに任命し,その解職は司令官の同意を必要とすること。

5 日本軍司令官の推薦により,日本人を中央官庁や地方官庁の職員に任命し,その解職には司令官の同意を必要とすること。

6 以上の要件は,満州国と日本国が将来締結する条約の基礎となるべきこと。

・関東軍の意向

1932.1.13 「満蒙問題善後処理要項」 溥儀を首脳とする表面立憲共和的国家とするも,内面は我が帝国の政治的威力を嵌入せる中央独裁主義


・政治機構

 三権分立 立法院・国務院・法院     しかし立法院は最後まで開設されず。

 国務院の長が首相だが 日本人のポストである国務院総務長官(総務庁次長とされたときもある)が事実上の首相

 各部の総長が出席する国務院会議が閣議であったが,実権は日本人のみによる次長会議

 本当の権力者は関東軍司令官。総務庁は関東軍に伺いをだし,関東軍参謀長名で「承認ありたるに付き,命により通知す」と承認状が来なければ,国務院会議に出せなかった。


・格殺

1932.9.10 暫行懲治盗匪法 制定。「臨陣格殺」権限=日本に反抗するものは,その場で殺して構わない。

 「保甲制」 隣組制度

 「集団部落」 強制移住 1937.1 では2000以上 その年に864カ所増やす予定


・阿片の管理

 国家財政の4-5%を阿片専売による収入

 1932.11 アヘン法により アヘンを禁止。「治療上必要なものだけは除く」

・学校

 公立学校の校長はすべて日本人。私立学校も日本人が監督官として赴任。

 満州国国家と君が代斉唱 宮城遙拝 教育勅語朗読 日本軍戦死者の忠霊塔への礼拝 神社のそばを通るときは,脱帽と最敬礼

 日本語習得の強制

 「中国人・中国語」は禁句 「満人・満州語」

 慣例的に 日本人は一等国民,二等は朝鮮人,三等は中国人。中国人は日本人と同じ列車には乗れない


・産業

 金,銀,鉄,石炭,銀行,鉄道,電信電話,ラジオ,航空などの重要産業は国有

 中国人の土地所有は「ひとり10町以内」とし,残りは没収。


・給与

 政府高官は日本の大臣の数倍の年俸。ふつうの官僚は日本人官僚の6割

・リットン調査団報告

 日本軍の武力行使は自衛のためではなく侵略行為。

 不戦条約(パリ条約)違反で,中国の主権を侵害。

 満州国が住民の自発的な運動によるものとは認められない。日本軍が「匪賊」と称しているものも,大部分が祖国防衛のための行動である。

 結論「単なる原状回復ではなく,日中間に新しい条約を締結させ,満州における日本の本来の権益を確保させること。満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府を作り,その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決を図るべき」


・満鉄

 鉄道,付属地の鉱山や炭坑,港湾,小中学校まで経営 徴税などの行政権も持っていた


・人口

 建国当初 人口3000万人 日本人24万 1%以下

 1940 4200万人 日本人100万 2%

1934 243868
1935 322394
1936 376036
1937 418300
1938 522189

満州国の人口 「満州国現勢図解」昭和15 満鉄


・中国共産党

(瑞金政府)

 1932.4 日本に宣戦布告

・満州国軍

 5つの軍閥部隊を国軍として編成。15万。匪賊討伐に当たる。

 1935 規模縮小 8万 警察兵

 敗戦時には反乱


・帝政

1934.3.1 帝政実施 即位式

 関東軍が政府首脳の中国人に対して「皇帝の意向だ」と強制しやすい政治体制

 即位式当日 新京は外出禁止令 溥儀の行列が通る道路脇には「着剣した銃を持つ日本部隊が,銃剣をつけていない満州国軍のうしろに立つ」


・満州移民

 1932.10 第一次試験移民 機関銃,迫撃砲などで武装

      武力で農民を追い出し,匪賊と戦わせながら農業をやらせよう

      現地住民を一戸に付き5円(移民団の食費政府補助のひと月分)で強制退去させ移民

 1933.7 第二次試験武装移民

      第3次は小銃のみによる武装。第4〜5次は武装せず

 建国時より農民の「刀狩り」も実施

 鉄道の両側500メートルは農作物植え付け禁止

 1934.3 農民武装蜂起


・満蒙開発五カ年計画

 1937 重工業重点。戦争遂行のため 中国人労働者の犠牲


 満州への流入人口

    1934 44万人
      35 42
      6 36
      7 ?
      8  49
      9 93
     40 131(以降強制連行始まる42万 ?)
     41 91
     42 106
     43 78

 ねずまさし『現代史の断面・満州帝国の成立』

 

・南京政府樹立

 1940.3 対日和平を主張して蒋介石と対立していた汪兆銘を助け,南京政府を樹立


・対満蒙政策

 建国直後の関東軍 「満州国は永遠にわが国策に順応せしめる」

 「満州国指導方針要綱」1933.8.8閣議決定 日本政府 「満州国政府に対する指導は現制における関東軍司令官兼在満帝国大使の内面的統轄の下に主として日系官吏を通じて実質的にこれを行わしむるものとす」

 満州国政府官僚の八割以上が日本人 朝鮮支配の踏襲


◎文献13より


・満州への入植

 1920年代にはいると,毎年80〜100万人の中国人が満州に移住していた。1923から1930までの純増加人口数278万


・朝鮮人の移民

 韓国併合後土地を奪われたりなどした朝鮮人は満州へと移住。日本は「日本臣民保護のため」と警察権を満州に及ぼすきっかけになった。

 1931.2 国民党会議 「朝鮮人は日本の侵略の尖兵」とみなし,朝鮮人の満蒙移住厳禁 鮮人駆逐令

               また一方で,朝鮮人の中国帰化を奨めた

               しかし日本の国籍法(帰化権容認条項含む)が朝鮮では施行されず,帰化した朝鮮人は二重国籍となり,日中両警察の争いになった。


・満州事変

 1931.9.18 関東軍は年来の満蒙領有計画を実行に移す

       英米経済恐慌, ソ連第一次五カ年計画達成のため中立不干渉を表明
       国民党は国内統一を最優先として不抵抗主義で関東軍の圧倒的勝利。

    22  満蒙問題解決策案 領有計画を断念して独立政権樹立へと方針転換。不拡大方針を採る陸軍中枢の反対によるもの。 石原は領有に固執

   10.2 満蒙問題解決案決定 国防を日本に委任し,鉄道・通信を日本の管理にゆだねることを条件として日本の保護下に満蒙を独立国家とすることとし,もし政府がこの方針を受け入れない場合,「在満軍人有志は一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する」


・満州青年連盟

 1928.11 満州における日本人の窮状打開と言論の活性化を図るため結成

       結成宣言「満蒙は日華共存の地域にして。その文化を隆め,富源を拓き以て彼此相益し,両民族無窮の繁栄と東洋永遠の平和を確保するこそ我が国家の一大使命なり」

       しかし中国人の排日運動の高まりとともに

       第二次宣言「吾等在満邦人の生存権は,支那政府の系統的産業圧迫と条約蹂躙の不法行為とにより今や覆轍の危機に瀕す・・・座して現状を黙過せば帝国の権益は湮滅し,亡国の非運祖国を覆うや必せり」と窮状をアピール

      しかしかえって排日運動は高まる

1931.6 「満蒙における現住諸民族の協和を期す」要求

     在満3000万人の1%にも満たず,排撃にさらされている日本人が満蒙における生存権と平等を求めたもの。

     同時に「国際信義を無視せる排日教育の根絶を期す」


1932.10.2 解散式 ほとんどが満州国官吏にはなれず


・満州での政党

 関東軍は議会政治を否定。政党の存在も許さなかった。

・三民主義との関係

 中国に浸透した三民主義は,反日・排日運動の教典として機能

 満州国政府は再三 三民主義教科書等の全廃を布告

 三民主義に対抗するスローガンとしての 順天安民・五族協和の王道楽土


・建国宣言

 「政は道に本づき,道は天に本づく。新国家建設の旨は,一に以て順天安民を主と為す。施政は必ず真正の民意に従い,私見の惑存をゆるさず」

 「凡そ新国家領土内にありて居住する者は皆,種族の岐視,尊卑の分別なし。原有の漢族,満族,蒙族および日本,朝鮮の各族を除くの外,即ちその他の国人にして長久に居留を願う者もまた平等の待遇を享くることを得。そのまさに得べき権利を保障し,それをして絲毫も侵損あらしめず」

 反日,排日の根拠となっていた民族意識を弱める意図


・対外通告

 「国交の親睦を期し,世界平和に貢献せんとす」

 道義立国の精神に則って国際信義の尊重,門戸開放,機会均等,治外法権その他の債務の中華民国からの継承などを公約


 関東軍「満蒙問題善後処理要綱」1932.1..27 「門戸開放,機会均等の主義を標榜するも原則において日本及び日本人の利益をはかるを第一義とす」



・五族協和

 五族共和は孫文が「漢・満・蒙・回・蔵」の代表によって共和体制の確立を目指したもの。

 「種族の岐視,尊卑の分別なし」も1912.3の中華民国臨時約法第5条「中華民国の人民は一律平等であり,種族・階級・宗教によって差別されることはない」からのもの。


・王道主義

 順天安民,民本主義,民族協和を包括した概念。三民主義と中華民国へのアンチテーゼ


 しかし王道国家という道義国家であるが故に,反対者はあるべきではなく,反対者は抹殺されなければならなかった

・溥儀登用の理由

 旧皇帝で満州族の名門
 満州が満州族のふるさとであるから国際的非難を回避できる可能性が高い
 溥儀は国民党政府と結ぶ心配はない
 溥儀自身に政治的実力がなく関東軍に頼らざるを得ない
 連省国家でいずれかの省の実力者が政権を取れば対立になる
 蒙古は清朝とのつながりが深く,蒙古族の支持を得られる


・立憲共和制

 しかし,歴史を後戻りさせるような清朝の復活は避けたい だから共和制。共和制を採る中華民国に対しても優位に立ちたい。立憲共和制
 

1931.10.21 満蒙共和国統治大綱案 立憲共和制で 選挙により選出された大総統が元首

     大総統とは1913-1931まで中華民国の元首の称号として使われていたもの。それ以降は国家主席

   11.7 満蒙自由国建設案大綱  「(元首の名称をいかなるものにするにせよ)敢えて民主政体の形式を固執する必要なきが,実際上民意に基づく政治を布き得る制度を執ること肝要なり。故に元首たるものは民意を代表するものたらざるべからず」


 初代総務長官駒井「共和国は選挙によりて大総統を選ぶことを必要とするも,新国家は選挙を行い難き事情あるを以て,国体は帝政とも共和制ともつかざる準帝制的仕組みとする」



・中国側建国最高会議

 1932.2.16〜

 溥儀側 帝政を主張に対して 張景恵ら立憲共和制を主張して対立 東北行政委員会が2.18独立宣言しても 対立したまま

 そこで関東軍が「民本主義に則って元首は執政とし,執政が善政を行うこと数年にして人民が執政の徳を称えて皇帝に推戴すれば帝政に移行する」という妥協案を示して2.24決着


・執政

 1924 段祺瑞が自称した臨時執政に倣ったもの 議会で合法的に選出された大総統ではないので執政

 1932.3.9 政府組織法

 第一条 執政は満州国を統治す。
 第二条 執政は満州国を代表す。
 第三条 執政は全人民に対して責任を負う。
 第四条 執政は全人民これを推戴す。

  これは中華民国約法における大総統と第四条を除きそっくり


 第五条 執政は立法院の翼賛によって立法権を行う。
 第六条 執政は国務院を統督して行政権を行う。
 第七条 執政は法院をして司法権を行わせる。
 第八・九条 執政は命令,緊急教令を発布する。
 第十条 執政は官制を定め,官吏を任免する。
 第11条 執政は宣戦,講和および条約の締結を行う
 第12条 執政は陸海空軍の統率する
 第13条 執政は大赦,特赦,減刑および復権を命ずる


・政府組織法 3.9公布

前文 「満州国国政を治理する根本法となす。但し,本法は将来人民の智識大意を採取し,満州国憲法を制定したるときは直ちにこれを廃止す」

 中国でもなかなか憲法ができず,満州国は憲法制定が近代国家成立の必須要件とみなされた

 1933.3 建国一周年の記念教書 憲法制定が急務であることを明らかにし 憲法制度調査委員会を発足

 1934.3 帝制移行 政府組織法は組織法と改訂され


・立法院

 執政の持つ立法権のうち法律案と予算案を審議し可決するだけの翼賛機能しかなかったが,関東軍は開設しない方針

 1931.11 関東軍「新国家における立憲政体とは法律的意義のものであって政治的意義のものではない」

       国民党政府を専制政治と批判してきたから形だけでも

       

・日満定位

 各機関のトップは満人。日本人官吏の比率も20%を限度 それが次長は日系となる

 国務院総務庁のみは70%

 しかし総数比率とも上昇


 総務庁は国務院の秘書庁のはずだった

 管制上なんら根拠のない次長会議で満州国の政策を決定


・石原の予想変更

1931.12.2 中央政府はこれを完全に日本に委託すべきである
1932.1.25 日支人は全く平等の地位に立つものとす。行政能力から見て高級官僚に多くの日本人が居るのは仕方がない
1932.4.22 新国家の政治は在満諸民族の公平なる参与により公明に行う。・・・各民族は全く平等なる社会的経済的計画を営む

   6.25 独自の満州国統治方針 関東軍による政策指導を放棄,かわりに満州国協和会の一党独裁


・承認

 1932.3.5 中国共産党満州省委員会 満州国否認声明
    3.12 南京国民政府 同様


・帝制実施の理由

 1933.12.22日本閣議決定 人身安定のため政体問題に決着をつける 同時に「主権在民の思想を排除し,かつ満州国国務の進展と帝国国策の遂行を阻害または牽制すること無からしむ」

 民主共和制に対するイデオロギー的反発

 大総統だった執政は 天皇と同じ皇帝へ 大日本帝国憲法とそっくり

満州帝国組織法第11条 皇帝は陸海空軍を統帥す

陸海軍条例により「皇帝の統帥権は軍政部大臣に委任」 実際に軍を動かしていたのは,軍政部顧問の関東軍人

 溥儀は尊厳不可侵の地位と引き替えに政治的実権を法的にも失った。 第4条 国務総理大臣は皇帝を輔弼し,その責に任ず

 天皇制の模倣  帝制施行後 蘭花の紋章の制定


・神

 1937.8 関東軍 日満一徳一心と民族協和を徹底するため,満州国の各民族の信仰の中心となる神を定め,建国神廟を創建することを満州国政府に要望。

 1940 日本 皇紀2600年の祝 がきっかけ  天照大神を奉祀

     神廟では90度のおじぎ 「不敬処罰法」


・帝族はいたか

 なんの法的根拠もなく帝族はひとりもいなかった 弟もちがう  宮殿もない

・解体

 1945.8.17 国務院会議において満州国の解体を決議 

     18 溥儀 満州国解体と皇帝退位の詔書を読み上げる その後 溥儀に従った政府高官はひとりもいなかった

・満州国陸軍軍官学校

 中国人と日本人が半数ずつだか待遇には大きな差 日本人生徒は新品 中国人生徒は古着


・国籍法

 ついに制定されず。法的にはたったひとりの国民もいない。その最大の理由は日本国籍を離れて満州国席に移ることを峻拒し続けた在満日本人の心ではないか


・学制

 1937 学制を公布

     言語教育の基本方針「日本語は日満一徳一心の精神に基づき国語の一つとして重視す」

     日本語が満州国のすべての地域で修得を課される第一国語。将来の満州国の共通言語

・宗教

 

 惟神道の強制 1945までに295もの神社があった 参拝,前を通るときの脱帽,最敬礼の強制

 学校の校庭にも建国神廟 建国忠霊廟が作られて朝夕の参拝が行われた。同時に天皇制を模倣した行事が進められ,皇帝の御影と詔書の写しは奉安殿に安置された。

 1942.12.8 国務院布告 「国民訓」 日本の教育勅語,朝鮮の「皇国臣民の誓い」と同じ

一,国民は建国の淵源,惟神の道に発するをおもい崇敬を天照大神に致し忠誠を皇帝に尽くすべし

一,国民は忠孝仁義を本とし民族協和し道義国家の完成に努むべし

一,国民は勤労を尚び公益を広め鄰保相親しみ職務に精励し国運の隆昌に貢献すべし

一,国民は剛毅自ら立ち節義を尊び廉恥を重んじ礼譲を旨とし国風の顕揚を図るべし

一,国民は総力を挙げて建国の理想を実現し大東亜共栄の達成に邁進すべし

 国旗掲揚,宮城,帝宮の遙拝,皇軍の武運長久と戦没英霊のために黙祷,ついで校長を先頭に国民訓の朗誦と訓話(皇帝陛下,天皇陛下という言葉が出たら全員 気をつけ),建国体操

 中国人は遙拝を「要敗」,黙祷を「磨刀」と聞いて堪えていた


◎文献12より

・満州国の法律

 1932.4.1 暫く従前の法律を適用するの件で中華民国の法律を適用


・治外法権

 日本は満州における治外法権をいち早く撤廃。

 二重国籍を認めない日本の国籍法を改正しなければ,日本人は法的には満州国民にはなれなかった


・日米開戦と満州

 戦争には参加しないが,国を挙げてその戦争に協力する。満州はどこの国からも宣戦布告されなかった。

12.8.11:40 日本対英米宣戦布告 その日のうちに満州国は態度決定

  関東軍の通知「満州国は米英両国に対しては宣戦布告をしない。しかし側面的に日本の戦争に協力する」

・満州国国歌


◎文献7より

・建国宣言 1932.3.1 東北行政委員会

1.満蒙の地は広く,民は淳朴なり。
2.満州国は崩壊しつつある中華民国と断然絶縁してここに独立す。
3.満州国の政治は民本主義により,在住諸民族は一視同仁にして毫も差別なし。
 最近軍閥跳梁して民生は塗炭の苦しみに泣く。支那本土は国民党の悪政に毒せられ,崩壊の道を辿りつつあり。
4.内政は先ず法律を改良し,自治を促進し,実業を開発することに努む。
5.対外政策は信義を本とし,祖国との親睦を図り,既存の条約は国際慣例によってこれを処理す。しかして産業開発のため,外国資本をも歓迎し,機会均等主義を主旨とす。

・満州国協和会創立の理念

1.満州国経綸の目標

 満州国経綸の目標は大平洋を中心とする最後の世界的争奪戦に備うるに在り。すなわち露国の極東攻勢を断念せしめ,大陸資源の技術開発をはかるのみならず,東亜諸民族を統合してこの大事業に当たるの抱負経綸なかるべからず。故に満州国の経綸はいたずらに眼前の勝利のみに走ることなく,東亜各国家親善の基礎たるべき民族協和ら根本着眼を置かざるべからず。

2.民族協和の根本精神

 満州国における生存のため協和を絶対必要とする東亜諸民族共同の敵たる支那軍閥は撃滅せられたり。
 今日以降,日本が政治的権力支持の下に満州国において漢民族と争わんとするごときは自ら支那軍閥を模するものにして,断じて東亜の王者として白人との決勝戦に立ち得る気宇ありと称する能わず。
 東亜諸民族親善の根本障害を打破せる吾人は豁達なる協和,公正なる競争により,人類の理想を先ず満州国に実現せしめ,以て東亜諸民族親善,世界統一の第一歩を此処に築くを要す。
 日本人は裸一貫となりて奮闘すべきものにして,日本国家の政治的掩護により,経済的社会的活動をなさんとするは絶対に不可なり。

3.国家の根本国策決定機構

 君主専制政治及び議会専制政治は満州国に適せず,結局,満州国内に堅実なる唯一政治団体を結成して民衆の支持を獲得し,之により国家の根本国策を決定しむるを最も適切なりと信ず。
 満州国協和会はこの目的のために,創立せられたるものなることを明確にし,その順調堅実なる発展に力を尽くし,該会が三千万大衆の支持を獲得し得るに至らば,之をして国家の根本政策を決定せしむべし。満州国の実情より見て指導宜しきを得ば,之がため長年月を要せぜめべしと判断す。志ある日本人は進んで満州協和会の事業に馳せ参ずべし。
 かくて満州国は日本国家の政治支配によらずして,日本人の参加する民族協和の独立国家となり,東亜諸民族親善の見本,やがては世界文化の向う指針たるに至るべし。


・兵役

 1940.4 第一条 帝国人民たる男子は本法の定めるところにより,兵役に服する義務を有す。但し同盟国の国籍を有するものは志願によりてのみ兵役に服す。

 日本人だけは志願制


・税制

 当時満州の租税は公平・普遍の原則も行われず,働くもの,下層者に重い倒錯的なものであり,課税できない治外法権や満鉄付属地があった。

 しかし,建国以来の税務に徴すると,住民は税法を守り,税吏は職務に忠実なことが確信された。かくして税収は増え,発展満州国の経費を賄うことが出来たが,こと租税については,国民にはほとんど不満の声がなく,租税のための紛争や騒動は一度もなかった。


 軍閥よりはまし ということか?


◎文献9より

・日本人の支配

 協和会 満・漢・蒙は「満州人」,序列は 日朝満

      日本人でも完全に満州国の職務に就いたものは,満人の扱い。 生卵を食べるのは日本人だけ

 満鉄付属地には満州国軍は軍隊を派遣できない


・帝国

 3.5 陸海軍条例,武官令,軍人勅諭発布

    勲章も日本式に制定 国軍の軍旗も日本陸軍に倣って親授

12.26 関東軍司令官南次郎大将 訓示


・日本人官吏に対して

決して満人に対して優越感を持って臨むな。
満人に対して親切であれ,寛容であれ。
満人の体面を重んじ,その職責を尊重せよ。

・満人官吏に対して

日本人に対して猜疑心を捨てろ。
日本の正義をあくまで信頼せよ。
恬淡たるべし。


・協和より秩序

1938

 朝鮮総督府南次郎大将「満州国内における朝鮮人に対する態度は,民族協和ではいけないから改めて欲しい」

 満州の五族協和で朝鮮の「日朝の上下関係が崩れる」というのである。

 石原莞爾「南という大将は頭が悪い馬鹿大将だと石原が言ったと伝えろ。満州建国は朝鮮統治,台湾統治の反省である。満州に民族の対立があってはならない」

6.18 石原は,「関東軍の内面指導権を協和会に譲って,名実共に独立国にする。それが建国に際しての三千万民衆との約束である。その約束を守らなければ,日本は道義的責任と信義を欠く」と司令官に辞表とともに意見した。


8.18 協和会服で日本に戻る


・日本の戦時体制

1940 日本の戦時体制の強化により,満州は軍需資源がより一層求められた  労働者不足

    消費物質と物価の統制で「神様から大豆まで日本のものになった」


・満州国の成果

 匪賊の出現回数 1935 39150回 1940 3667回

 学校 建国当初 小学校数9128校 就学率12%
     1940       19908校   38% 大学も21校

 特急あじあ号



◎文献4より

・高橋是清大蔵大臣の訓示

「いま満州国が造られている。君たちはその仕事を引き受けるために行くのだ。真に満州のためを計ってやらなければいけない。日本の利益を計るごときは,二の次のことである。君たちは満州国人の身になって,満州国人の真の幸福を計らなければならない」


・協和会

 二十歳に達した男性はすべて会員。女性は婦人会。


・護衛隊

 帝制実施で溥儀の要求により三隊300人からなる護衛隊「禁衛隊」 しかし関東軍はすぐにつぶしにかかり 皇宮警衛所として武装解除し,短剣のみの警備隊とした。

・石原

 第四連隊長 石原は「実践に役立つ兵隊を作ること」「兵営生活をたのしいものに改造すること」と目標を立てた


・満州国予算

 1932 一般会計歳入 152922 歳出 129634

 1937           304555     304555


 歳出の大半は国防,警察機構,産業開発


・満州国海軍

 当初5隻 1937には19隻の軍艦 


◎文献18より

1937.2.17 覚書

康徳皇帝に帝男子無き場合における皇位継承に関しては,関東軍司令官の同意を得て左の如く之を定む。

一 康徳皇帝と帝后との間に帝男子無きこと確実となりたる時は,皇位継承は一に天皇の叡慮に依りて之を決定するものとす。

一 康徳皇帝に帝男子無き場合,帝位継承を決定せる時は,天皇の叡慮に依り帝位継承せしむる旨,皇帝より之を宣すものとす。

一 歴代皇帝もまたこの規定によるものとする。


・建国神廟

 1938.8.5 関東軍より建国神廟創建の要望書

       石原「関係者に日本人は除いて,漢民族の崇拝する神を祀るように」二週間後には左遷

 1940.6.20 溥儀の二回目の訪日

    7.15 国本奠定詔書 清朝の祖先を祀ることをやめて 天皇が祀る天皇の神 天照を建国の神と定めた。


◎文献19より

・満州国勤労奉仕隊の旗(?)

 この旗はヒットラー・ユーゲントの旗にそっくりではないですか。

 中心の紋様はスワスティカか?!


・米軍爆撃

 1944.7.29 大連へ初の爆撃


・南京政府(親日政権)の旗

 青天白日旗



◎メモ

 1931.11.7 中華ソビエト共和国臨時政府 瑞金 毛沢東政府主席

 1937.9 第二次国共合作 臨時政府解消 紅軍は国民党軍の指揮下へ


1921 外蒙古独立

1924.11  国号をモンゴル人民共和国に変更 承認した国はソ連だけ