「ハワイの旗」 特設ページ

メールで反応をどうぞ。伝言板に反応をどうぞ。

更新状況

2003.11.28 「本当の」ハワイの旗
2003.10.30 文献追加
2002.9.2 州旗と王国旗の違い
2002.8.30 「ハワイの旗の日」
2002.8.18 文献追加
2002.8.17 ハワイ併合合同決議文
2002.5.4 王朝転覆の宣言文
2002.3.10 文献追加。
2002.3.7 文献追加して整理。
2002.3.6 文献追加。『Hawaiian Money』『ハワイ史』
2002.2.8 ハワイのお金」 ハワイの貨幣制度経済史概観
2002.2.4 ハワイのお金」 『Hawaiian Money』より「ハワイの旗」全訳
2001.12.28 ハワイと鉄」シリーズ追記
2001.12.16 ハワイと鉄」シリーズ追記
2001.12.15 文献追加。
2001.12.14 ハワイと鉄」シリーズ追記

2001.12.13

文献追加。「ハワイと鉄」シリーズ開始

2001.12.4

スミス博士の本を翻訳

2001.11.30

「ハオとハオレ」
 2001.11.9 文献に見る初期の王国旗」追記
ハワイの旗の変遷」 苅安会長説を追記

2001.10.29

ハワイのお金」 王国時代に発行の札に「共和国」?!

2001.10.19

ハワイ王旗

2001.10.17

ハワイの旗の歌

2001.10.13

文献に見る初期の王国旗

2001.10.12

最初のハワイ王国旗

2001.10.10

マヘレ法

2001.10.9

ハワイの旗・縦横比の謎 追記

2001.10.5

ハワイの旗・縦横比の謎

2001.10.4

ハワイアン・キルトの謎

2001.10.3

ハワイ独立旗消滅

2001.10.2

憲法で見る 選挙権の変遷

2001.9.3

文献追加。

2001.8.23

古書にあるハワイの旗米国の謝罪全文掲載。

2001.8.22

文献追加。また多量に注文しましたので,あとで追記します。

2001.8.9

ハワイ島旅行記」。息抜きにどうぞ。「ハワイと諸外国との条約一覧

2001.8.8

ハワイアンキルティングの謎。「最初のハワイ王国旗

2001.8.7

ハワイ関連旗年表」一応完成。

2001.8.4

ハワイの旗のユニオンジャックが意味するもの。「ハワイの旗の意味

2001.8.3

条約に見る「ハワイ王国の成立」

2001.7.30

ハワイの歴史。『Hawaii a history』翻訳開始

2001.7.23

モスキート王国旗。この旗のおもしろさがわかる方は「通」です。

2001.7.12

ハワイ民族旗の情報

2001.7.1

The flag of Hawaii」翻訳完成

2001.6.26

ハワイ関連文献追記。

2001.6.20

The flag of Hawaii」翻訳

2001.6.19

ハワイ関連文献追記。「The flag of Hawaii」翻訳開始。

2001.6.18

ハワイ関連文献追記。ハワイ王国軍の謎。

2000.6.16

ハワイ関連文献追記

2001.6.15

ハワイ関連文献追記。現在のハワイ王

2001.6.14

ハワイ関係文献書評。外国人と鉄

2001.6.12

ハワイ州章 ハーグに翻った王国旗

2001.6.11

ハワイ共和国の旗

2001.6.7

ハワイ独立旗の情報

2001.6.2

独立したページに。「ハワイの条約一覧表」公開。

2001.6.1

ハワイ王国と日本の条約文 

2001.5.21

関連旗と解説。

2001.5.20

旗の変遷。関連旗も紹介。

2001.5.18

'Ohanaの意味。

2001.5.17

旗の変遷が判明。

2001.5.16

追記。

2001.5.15

ハワイの旗

■ハワイの旗

 野戸谷睦さんが精力的に研究している「ハワイの旗」。研究のお手伝いをしているうちにおもしろくなってきました。野戸谷さんの研究に役立つように,ボクが調べたことをここでまとめておくことにします。


文献書評(入手したもののみ) ◎新刊で入手可能

書籍 H・グレゴリイ著,國友忠夫訳 『ハワイ史』 三省堂 昭和18年(1943) 古本屋で1900円。なんでこんなに安いのか不明だが,中身はとてもおもしろい。「米国に不当に侵略されているハワイとそこにいる同朋を救うために,まずハワイの歴史を知ることが大切」と訳者の弁。「遠からずハワイには日の丸が立つ」となんとも勇ましい。原著は1920年頃のハワイ歴史委員会によりハワイ史の教科書として書かれたもの。当時の米国の状況を反映して,近代史は党派制に満ちているが,376ぺもある歴史書で,日本語の文献としては一番ではないだろうか。  
R.S.Kuykendall 『THE HAWAIIAN KINGDOM Vol.1-3』
University of Hawaii Press 1953
ハワイの歴史ついて最も権威のある本。読みやすく良い本である。1巻目は現在古書でしか入手不能。
Milo M. Quaifeほか 『The History of the United States Flag』 Harper & Row 1961 ハワイの旗について8ページも割いている本。残念ながら古書でしか入手できないが,とても詳しい。訳文を下記に載せておく。  
ジェイムズ・ミッチナー著 田中西二郎訳 『ハワイ』 時事通信社 1962 1959年に発行されベストセラーとなった大河小説。小説なので,一部を除き登場人物名などもすべて架空の名前である。この小説ではハワイ併合に対して罪の意識はなく,「日本に併合されるよりも米国による併合が正義」というのが全体を通している主張。「おろかな王たち」などの表現がたくさん出てくる。  
Liliuokalani 『Hawaii's story by Hawaii's queen』 Charles E. Tuttle Co.,Inc. 1964 もともとは1898年発行のもの。リリウオカラニ女王による自叙伝。写真が多くておもしろかった。
Edward Joesting

『HAWAII An Uncommon History』

Norton 1972
1925年に出版されたものの復刻版。板倉聖宣氏作成の年表に『ハワイ,この異常なる歴史』と日本語で記入されている。読みやすいとは言えない。  
Sonia P. Juvikほか編
『Atlas of Hawai‘i』
University of Hawaii Press 1973
「ハワイ大百科」と呼べる内容の本でとても美しい本。人口など様々なとても興味深いグラフや図が満載である。しかもデータの出典もはっきりと明記されている。研究の必需品である。現在のは第3版であるが,版毎にグラフなどが変わっているらしいので全部の版を入手。初版と2版はよく似ている。 3E◎
Gavan Daws 『Shoal of Time   a History of the Hawaiian Islands』 University of Hawaii Press 1974 R.S.Kuykendall 『THE HAWAIIAN KINGDOM Vol.1-3』の簡易版みたいなもの。一冊もののハワイの歴史書としてはベストといわれている。きちんと年代を追って書かれており,大変読みやすい。パトリックのおすすめ。
Bernice Judd 『Voyages to Hawaii before 1860』 The University Press of Hawaii 1974 原著は1929年の発行。クックから1860年までにハワイにやってきたすべて船のことを記載している本。著者はJudd博士の孫娘。  
Whitney Smith 『The Flag Book of The United States』改訂版 William Morrow & Company, Inc. 1975 米国の旗についての基礎文献であり,多くの文献に引用されている。古書でのみ入手可能。ハワイの旗についても4ページをさいている。摂政の旗,王旗も掲載している。王国初期の9条の旗は,この本が典拠文献であろう。  
Walter F. Judd 『Palaces and Forts of the Hawaiian Kingdom』Pacific books 1975 宮殿や砦を通してのハワイの歴史で「米国より」ではないため,なかなかおもしろい。王朝転覆の際の革命派の宣言文全文が載っているので,そのうち翻訳する予定。米国アマゾンより購入。著者はBerniceの息子。
田丸忠雄 『ハワイに報道の自由はなかった』 毎日新聞社 1978 戦時下のハワイと邦字新聞,日系人の様子を淡々とつづっている。戒厳令軍事政府の布告や命令も収録。「事実」がよくわかる。  
Ruth M. Tabrah 『Hawaii,a history』 W.W.Norton&Company 1984 米国各州の歴史シリーズの一冊ですが,「米国の正当性については,後世の判断にゆだねる」ということで,党派制もなく安心して読めます。また著者に旗についての視点があり,旗のことがよく出てきます。索引に「Flag」があるのは,この本だけです。今一番のオススメです。
Mary Kawena Pukui ほか著 『Hawaiian Dictionary』 1986 University of Hawaii Press ハワイ語→英語,英語→ハワイ語辞典の最高峰。パトリックのお薦め,実に使いやすく必携。
Rita D. Haban『How proudly they wave - Flags of the Fifty States』Lerner Publications Company 1989 米国州旗についての子ども向きの本でとても簡潔にわかりやすくまとめられている。
西沢佑 訳 『ハワイ語-日本語辞典』 千倉書房 1990 ¥4762 『Pocket Hawaiian Dictionary』(ハワイ大学出版・1975)の翻訳版で約6000語を収録。語源についても載っていて詳しい。『Hawaiian Dictionary』がハワイ語辞典として一番詳しいようだ。
Donald Medcalf, Ronald Russell 『Hawaiian Money Standaed Catalog』 Second Edition 1991 自費出版 ハワイで使われていた貨幣などのカタログですが,とてもおもしろいです。第2版には,ハワイの経済と旗についての解説があっておすすめです。この本は自費出版のため,在庫がないと注文してから数ヵ月も待たされることがあります。
Michael Dougherty 『To Steal A Kingdom』 Island Style Press 1992 題名の通り,「米国の不当性」を主張する本ですが,資料がとても面白いです。「ネイティブハワイアンの人口グラフ」(間隔が適当だけど),「王朝一覧」,「諸外国のハワイ到着年」,「ハワイ語辞典」などがおもしろく,何かと役立つ本です。
Patrick V. Kirch ほか 『ANAHULU The anthropology of History in the Kingdom of Hawaii』 The University of Chicago Press 1992 かなり専門的な本。考古学的で役に立たない。
山中速人 『ハワイ』 岩波新書 1993 最後の章の「ハワイの独立主張団体」のところは参考になりました。
中嶋弓子 『ハワイ・さまよえる楽園』 東京書籍 1993 和書の中では一番の情報がある。年表や文献もしっかりしている。まずこの本でハワイの通史を学ぶと良いだろう。この本も現在のハワイの独立運動の現状について詳しい。
James Cook著 John Barrow編

『CAPTAIN COOK VOYAGES OF DISCOVERY』

Academy Chicago Publishers

1993
1660年のジョン・バロー編のクックの航海記を元にした簡略版。日付がはっきりしておらず読みにくいが,ハワイについてはほとんど省略されていないので役立つ。
Benjamin & Barbara Shearer 『State Names, Seals, Flags, and Symbols』Greenwood 1994 \6794 米国各州についての事典。レイアウトが悪くとても読みにくい。
ハロラン芙美子 『ホノルルからの手紙 世界をハワイから見る』 中公新書1228 1995 文献がすべて英語のもの。「ハワイにひるがえったロシア国旗」の章だけがおもしろい。著者はクリスチャン。
R.ロス編 畑博行ほか監訳 『ハワイ 楽園の代償』 有信堂 1995 『The Price of Paradice』1992-93の抄訳本。ハワイ在住の学者,経済人,ライターがハワイの現状と歴史をどのように認識しているのかが明快にわかる。ただ翻訳はまずくて読みにくい。
荒俣宏ほか訳 『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』 小学館 1995 王の随行員の一人であったアームストロングが書いた本の翻訳。ハワイ王国の政治の実情が読みとれる。しかし訳者のカラカウアが王に選出されたいきさつの歴史認識(ハオレは親英派のエマを推した)は間違っている。
ウォルター・マグドゥーガル著
加藤祐三監修 『太平洋世界 上・下』
共同通信社 1996
太平洋における列強諸国の利権構造を歴史的に描いた本。文献がしっかりしていて,ふつうの歴史書には載っていないようなことがたくさん書いてある。「賢人会議」という仮想対談もおもしろい。おすすめ。
James Minahan 『Nations without states』 Greenwood 1996 \1,4504 世界の独立主張民族の百科事典。もちろんハワイのことも載っている。旗の図案がすべてモノクロ線画なのが淋しい。
小平豊 『カメハメハ 上・下』 同時代社 1997 カメハメハの生涯を描いた歴史小説。作者は高校教師。ハワイ人とハオレとの関係について独特の視点(「ハオレを神と勘違いしたのではなく,利用した」など)があり,おもしろい。
高山純 『江戸時代ハワイ漂流記』  三一書房1997 『夷蛮漂流帰国録』の検証である。7000円もする本だが,「予想がないと,こうも見ることはできないものか」と驚く。
津田道夫 『ハワイ 太平洋の自然と文化の交差点』 社会評論社 1998 実に党派性のある本。あちこちにレーニンの言葉が出てきて驚く。科学教育の平林浩さんも友人としてたくさん登場する。世の中は狭いものだ。内容については,「謝罪決議」の抄訳がある。
Tom Coffman 『Nation Within』 Epicenter 1998 米国の不当性を告発する本です。「人名検索」が役に立つかな。
塩谷亨 『ハワイ語文法の基礎』 大学書林 1999 入手可能なハワイ語文法に関しての唯一の本らしい。
James Cook著 Philip Edwards編

『The Journals Of CAPTAIN COOK』

Penguin 1999
こちらは,地図も豊富で,日付がはっきりと書かれており,大変読みやすいが,ハワイに関することはかなり省略されている。
池沢夏樹 『ハワイイ紀行』 新潮文庫 2000 「ハワイイ」というタイトルからもわかるように,ハワイの歴史について書かれた「アロハ・オエ」という章がおもしろいです。とてもわかりやすい文章です。鉄とハワイアンについてのことにも触れています。
富田虎男ほか『アメリカの歴史を知るための60章』 明石書店 2000 38章「ハワイ併合」が実に簡潔によくまとまっています。ただ参考文献が山中『ハワイ』,中嶋「さまよえる楽園」,『Nation Within』となっていて,ようするにこれらの本からのまとめです。
滝川徹 『ハワイアンワードブック』 えい出版社 2000 出版社の名前は「木」へんに「世」と書いて「えい」。7000語を収録した,ハワイ語・英語・日本語辞書。「日常ハワイ語」が中心であるが,それなりに使える。
近藤純夫 『ハワイ・ブック 知られざる火の島を歩く』 平凡社 2001 観光ガイドであるが,歴史についても詳しく取り上げている。写真が豊富で見ていてたのしい。
矢口祐人『ハワイの歴史と文化』中公新書 2002 ハワイについての概説。
テランス・バロー『アンオフィシャル ハワイブック』2002 集英社 原著は1974発行。なかなかおもしろい。一読の価値がある。
よしだみどり『白い孔雀』文芸社 2002 カイウラニ王女の生涯を描いた名作。涙なくしては読めない感動の名作である。
猿谷要『ハワイ王朝最後の女王』文春新書 2003 新しい事実はないが簡潔にまとまっている。テレビ番組にもなった。
       
       
ビデオ Patrick Ka'ano'i "Ka Hae Hawai'i" Ka'ano'i productions 2003 ハワイ人のカアノイさん制作のハワイの旗についてのDVD。1990作成のビデオの改訂版。「ハワイの旗の日」に合わせて公開され,ハワイの国立公園内で毎日放映されているもの。 非売品
サイト Flags Of The World
http://www.fotw.ca/flags/ 
「合衆国-ハワイ州」のページに,ハワイの旗の歴史や独立運動などについての情報がある。このサイトの情報を元に研究を進めている。   
ハワイ州政府
http://www.hawaii.gov/
州旗と州章についての簡単な説明がある。  
State of Hawaii Data Book 1999
http://www.hawaii.gov/dbedt/db99/index.html
上記『Atlas of Hawaii』のデータはここからのものが多い。人口データなどをエクセル形式で公開している。データの宝庫である。  
Hawai`i Independent and Sovereign
http://hawaii-nation.org/
「ハワイ独立旗」を掲げる団体のサイト。ウェブマスターはスコット・クロフォードさん。  
Free Hawaii.Org  a plea for freedom!
http://www.freehawaii.org/
こちらはハワイ王国旗に似た旗を「ハワイ王国の旗」として掲げる団体のサイト。「ハワイ王」と主張する人物が主宰するサイト。  
Kingdom of Hawai`i  Reinstatement and Recognition
http://www.pixi.com/~kingdom/
ハワイに関する歴史的資料がたくさんあるサイト。かなり役に立つ。  
The Hawaiian Kingdom
http://www.hawaiiankingdom.org/
なんとハワイ王国政府のサイト。ポストは空席ばかり。摂政団評議会議長,臨時内務大臣が,ディビット・ケアヌ・サイ氏。  
HALAU O KA LAMA
http://members.aol.com/lvhalau/home.htm
パトリック・カアノイさんのハワイ研究のサイト。カアノイさんは,ハワイ州法のハワイの旗に関する起草者。このサイトのハワイの旗のページはとてもおもしろい。  
ハワイ文庫
http://www.asahi-net.or.jp/~rf2s-asm/index2.htm
ハワイ研究家の浅海伸一さんのサイト。ハワイについての文献情報がとても貴重。必見の価値アリ。  



「本当の」ハワイの旗

 ハワイのストリーミング放送をwebで見ていたら,おもしろい旗を発見。パトリックに問い合わせると,「サイメオナの旗」ということ。そこで調べてみると,「ホノルル・アドバイサー」の記事を見つけましたので訳しておきます。2003.11.28







The Honolulu Advertiser | Local News
URL:http://the.honoluluadvertiser.com/2001/Feb/12/212localnews29.html







ハワイの旗論争

 様々な出来事があってもハワイの旗は,長い間ハワイの民族主義にとって誇り高き象徴であり続けています。
 しかし一部の人は,「英国と米国の象徴を合体させた旗は,あまりにも植民地主義的だ」といいます。

 「1843年の5ヵ月間ハワイを占領した英国海軍大佐ジョージ・ポーレット卿によって打ち捨てられた緑・赤・黄の縞からなる最初のハワイの旗を復活させた」と主張するホノルルのジーン・サイメオナの登場です。

 彼の新たに発掘した旗は,サイメオナに「我々は英国人ではない。我々はハワイの原住民である」と告げます。

 サイメオナは1999年イオラニ宮殿で「現在のハワイの旗は最初のものではない」と語るポーレット卿の子孫に出会ったといいます。

 このことがサイオメナをハワイ公文書館で「最初の旗のデザイン」を探し回らせることになり,そして彼はそれを復元しました。それから彼と彼の共同事業者のスタン・フォンセカは,その紋章をそれが復活したハワイ王国の新しく非植民地的な象徴となるのを期待して量産してきました。

 フォンセカによると,旗の緑色は庶民階層と土地と善良を表し,赤色が首長に仕えた土地頭と血統と力を表し,黄色が首長と精神性と危機に対する即応力を表しているそうです。

 旗の中央には,ハワイ人の航海の歴史を象徴する交差した尖った櫂とカーヒリからなるハワイ原住民の紋章をまとった緑の盾章があります。

 独立ハワイ国家の復元を目差す「統合への叫び」の設立者のアンナ・マリー・カフナハナは,誠心誠意この旗を支持しています。
 彼女は「これは我々が民族や国家として何者であるかを表しています」といっています。

 他の人たちは,そのデザインにそんな自信を持ってはいません。

「あまりにレゲエ的」

 精神的団体「クーの民族」のアオポハクク・ローデンハーストは「しばらくそれを掲げてみたけれども,それを降ろした。私にとってあまりにレゲエ的だからだ」と述べました。

 しかし,サイメオナとフォンセカは,製造が間に合わないほどに旗を売ったりあげたりしています。

 2月25日彼らはポーレットの艦隊がハワイを占領した記念に「ハワイ民族の旗」をイオラニ宮殿前に掲げることでしょう。

 「あなたのユニオン・ジャックは故郷に置いてきてください」「ハワイアン・ニュース」紙でのイベント告知でそう宣言されています。

 英国の探検家ジョージ・バンクーバー艦長は1794年にハワイ諸島最初のユニオン・ジャックをカメハメハ1世に贈呈しました。

 その後英国と米国の紋章が組み合わされました。9つの縞はハワイの主要な島々と群島を表していました。ユニオン・ジャックは,英国とハワイの歴史的な保護関係を表していました。州になってから,縞は8つに減らされました。

 医者であり独立派「机」のリーダーであるケクニ・ブレイズデルは,「おそらく今が旗から植民地的象徴を除く時だ」といいました。

 しかし他の人たちは「本物であると確証される前に,ハワイ人は新しい旗を奉ずるべきではない」と言っています。

 ハワイ王国摂政評議会の広報担当であるピーター・ウミアリロア・サイは,「我々は1年前にサイメオナの旗を知った時から,その起源を明らかにすべく調べてきましたが,なんの手がかりも得られませんでした」と言っています。

 サイは「現在,我々は以前のハワイ王国の公式な紋章としての伝統的なハワイの旗を確認するために膨大な資料を集めているところです」と言っていました。

 「植民地的な象徴にも関わらず,それは私たちの国旗です。そして否定的な傷跡があるからといって,それを捨て去ることはできないのです」と彼は言っています。

 彼は「新しい旗について言えば,我々は偏見を持っていません。しかし,その価値以上には,何物も与えるつもりはありません」と語っていました。











王朝打倒時の革命派の宣言文


Walter F. Judd 『Palaces and Forts of the Hawaiian Kingdom』Pacific books 1975

に革命派の宣言文が載っていたので翻訳する。

声明文

 初期のハワイは,公正な立憲政府があり,人民の利益のために経済を管理していた。
 王室は助言のため,政敵にですら文句のつけようがない高潔な公正で堅実な人物をアシスタントとして求めた。
 武力反乱や革命は考えられないほど政府の安定性は保証されており,民権は尊重され,臣民の基本的人権は時がたつにつれ増大し,元首の大権は歴代の王の自発的行動により減少していった。
 わずかの例外はあったが,この事態は先のカラカウア王陛下治世の最初の数年後からその最後までずっと続いてきたものである。この時にいたって変革が最高責任者を活気づける精神と王座の周辺に与えた影響とでは,はっきり違っている。王の側で山師や品性のない者,地域社会の代表を喜ばせるため,役人の権力と影響力を用いて着実に増加する議員の汚職と,選挙への違法な影響は,結果として,行政・立法のみならず,司法にも広がっていることは疑いの余地がなく,こうした傾向が確実に増加してきたことがはっきりした。
 このことは結果として,嫌悪の感情となり,王から害悪の権力の大部分を奪い取った1887年の蜂起へと繋がった。
 この運動の指導者たちは個人的な政治権力の拡大や土着の政府の弾圧を目指したのではない。もしこれが彼らの目的だったならば,彼らは完全な支配権を握っていたので,容易に達成できたはずだからである。
 彼らの目標は,人民が選出した議会に責任を持ちサポートされる議員制内閣による信用のおける政府を手に入れることであった。このことについての条項は憲法に挿入され,「国家主権に関するすべての事項は内閣の助言により執行する」という具体的根拠により,続いて立法府による法により効力をもった。
 王は喜んでその提案に同意し,過去に対する遺憾の意を表明し,自ら将来に対する約束をした。
 そのような合意と約束の日々から彼の死のときまで政府の歴史はほとんど,約束を無視して失った権力を取り戻そうとする王と内閣・議会との間の絶え間ない争いだった。
 この衝突は何度かは危機に直面したが,王側が遺憾の意を表明し,将来も憲法と法的な制限を受け入れることを約束した結果となった。
 それぞれの事例でそんな約束は,過去のすべての約束を無視した反逆による衝突のとき,そんな機会が訪れるまでは守られた。
 リリウオカラニ女王陛下戴冠のとき,短い間だが,新しい政策が採用されるだろうという希望が優勢であった。この希望はすぐに女王が議会の多数の支持を受けた現内閣と衝突し,女王の勝利により内閣を解散したことにより台無しにされた。新閣僚の選定は女王の希望に基づき,最近までの任期継続は,1892年5月の議会冒頭まで女王が求める政策の提示の機会を与えなかった。
 このような最近の動きは,女王陛下側が彼女の兄に倣って王権を拡大し,人民の権利を縮小しようとする頑なな決意を示してきている。
 その活動の後半では,議会は汚職で充満し,贈収賄と他の違法なコネは,望んだ結末をもたらすためにおおっぴらに使われ,結果としてすべての反対を押しのけて,女王陛下が勝手に選んだ内閣の発足は,完全に憲法の原則と人民の代表への反逆となった。
 そんな結果にも関わらず,負けた側はおとなしくその状況に従った。
 勝利に満足しない女王陛下は会期の最終日に新憲法を公布する権利を勝手に自分のものとして,王国の私有財産所持者の90%と有権者の4分の1以上にあたる者の議員選出権を剥奪し,選挙による上院議員選出を廃し,主権者の任命によるものに置き換えようとした。 この試みとこれに関して後に続く事件についての詳細はホノルル市民のための公安委員会の報告書と第16回国民会議での決議に公表されている。報告書の正確さと決議の正当性は,これによって特に肯定されている。
 憲法の進化は,独立し,憲法を持つ,人民の代表として信頼できる政府は革命の勃発から自らを守ることが出来,現政権下のハワイにおいては,もはや王室による権利侵害は不可能であるということを,仕方なく後悔をしながらであっても,ゆっくりと着実に,地域の責任者や保守党の大部分に確信させてきた。
 政府に対する5つの反乱や陰謀が5年と7ヵ月の間に起こってきた。先の土曜の頂点に達した革命が,もし根本的手段が取られない場合,すでにダメージを受けた我々の信用を破壊し,すでに無理がある経済状況を最終的滅亡へと促進させ,所有と自由と生命の保護の保証は確実に減少し,政治的状況は急速に悪化すると固く信じられている。
 この信念の元,行動を起こすことはこの土地のすべての市民の最善の個人的,政治的そして所有の権利となるであろう。
 我々,組織され公益と公安のため活動するハワイ諸島の市民と住民は,ここに以下のように宣言する。

1. ハワイ政治の王朝機構は,ここに廃止される。
2. 公務の運営と治安維持のための暫定政府はここに設立され,アメリカ合衆国との結合が交渉され合意されるときまで存続する。
3. 暫定政府は次の四人による最高執行委員会より構成されるものとする。
 S.B.Dole,
 J.A.King,
 P.C.Jones,
 W.O.Smith.
  以下に名前を挙げる14名からなる諮問委員会声明とこの宣言文に矛盾しない限り,現在のハワイ法に基づき,政府の行政部を統治する者は最初に名前がある者で国家主席,最高執行委員会長として活動し,外務省も管轄する。他の者はそれぞれ順番に内務省,財務省の管轄と検事総長とする。
 S.M.Damon,     A.Brown,
L.A.Thurston,  J.F.Morgan,
J.Emmeluth,    H.Waterhouse,
J.A.McCandless,  E.D.Tenney,
F.W.McChesney,  F.Wilhelm,
W.R.Castle,     W.G.Ashley
W.C.Wilder,     C.Bolte.
諮問委員会は立法権も持つものとする。
 最高執行委員会と諮問委員会は一緒に活動し,委員の任免権を持つものとする。
4. 現政府のすべての役人は,下記にあげる者を除いて,現在の職場に留まり,職務を続けるよう要求される。
  リリウオカラニ女王,
  チャールズ・B・ウィルソン司令官,
  サミュエル・パーカー外務大臣,
  W.H.・コーンウェル財務大臣,
  ジョン・F・コルバーン内務大臣,
  アーサー・P・ピーターソン検事総長
 は公務から追放される。
5. これにより矛盾しないすべてのハワイの法律と憲法の原則は,最高執行委員会と諮問委員会の命令があるまでその効力を維持するものとする。

(署名)
 Henry E.Cooper,  J.A.McCandless,
Andrew Brown,   Theodore F. Lansing,
Jhon Emmeluth,  C.Bolte,
Ed. Suhr,      Henry Waterhouse
W.C.Wilder,     F.W.McChesney
Wm.O.Smith












モスキート王国旗

 中米の旗の変遷を調べていて,とてもおもしろい旗を見つけてしまいました。

 by Mark Sensen(FOTW

 http://www.fotw.ca/flags/ni-mc.html

 モスキート王国(1687-1893)というのは,中米ニカラグアのカリブ海沿岸部にあった国です。中米は,スペインの植民地だったのですが,モスキート海岸部には,多くの英国人が入植し,もともといたモスキート族と協力関係を保ってスペインに対抗していました。1687年にはモスキート王のジェレミー1世がジャマイカで戴冠して,モスキートがイギリス保護領であることを宣言しました。しかしその後徐々に英軍は中米より撤退し,1860年には,ニカラグアの英領は消滅しました。そんな中で1834年に採用されたのがこの国旗です。

 カントンにユニオンジャックを配しているのは「英国の保護下にある」という宣言です。青と白の縞は,ここが中米の国であることを表しています。この旗がハワイ王国の旗と似ているのは偶然でしょうか。どちらも英国の保護下に入って独立を保ちたかった国です。そしてどちらの国も,今はもう存在しません。

 そして1860年の英領消滅後,この国旗はカントンにニカラグアの国旗を入れます。そして,モスキート王国は1893年の最後の中米連邦である大中央アメリカ共和国の中に吸収されていきます。




by Mark Sensen(FOTW



(2001.7.23)




「The flag of Hawaii」
Milo M. Quaifeほか 『The History of the United States Flag』 Harper & Row 1961 より翻訳

 米国の50星の国旗が1960年7月4日ハワイ州の州都であるホノルルのイオラニ宮殿に掲げられたとき,そのかたわらではハワイ州旗が貿易風に翻っていました。50星の国旗はその歴史の中でたびたび変更されてきた一方で,ハワイの旗が変わったのは,その長い歴史の中で,たった一度だけだろう。50州の旗で,王国,保護領,共和国の旗として翻り,最終的に州旗になったものはほかにはない。
 その歴史は,ハワイの最初のヨーロッパとの接触のときにまでさかのぼる。その起源は明らかではなく,学者の間でも議論になっている。
 最初の明らかに証明されているハワイ諸島とヨーロッパ人との接触は,1788年1月18日に偉大な英国の軍人で冒険家たったジェームズ・クック船長がカウアイ島のワイメアに上陸したときです。彼は海軍大臣サンドイッチ伯爵の栄誉をたたえて,島々をサンドイッチ諸島と命名しました。クック船長と乗組員は,原住民たちに神としてあがめられました。そして,嫌々ながら北西航路探索のため春に旅立ちました。そして冬を過ごすため,彼らはハワイに戻ってきました。しかしこんどは,彼らがまさに人間であるということを知った原住民たちとの衝突が発生しました。盗まれたボートを取り戻そうとした騒ぎの中で,クックは1779年2月14日ハワイ島カアワロアで殺されました。今日,彼の像がその場所を記しています。
 1786年までにハワイ諸島は何隻かの英国とフランス船の寄港のための港となりました。かつてクック船長とともにハワイを最初に訪れたジョージ・バンクーバー船長が1790年代に三度の訪問をするまで,どのヨーロッパ諸国もハワイの支配者に強い影響力をうち立てることはありませんでした。バンクーバーの2度目(1973)と3度目(1974)の訪問で,彼はハワイ諸島の有力支配者たちすべてと会い,乗組員と原住民が騒動を起こすことを避けました。彼は特に,頭角を現してきていたカメハメハと親交を結ぶことに力を入れました。1793から1794年にかけてバンクーバー船長は,しっかりとした基盤を持つハワイと英国との友情と協約を作り上げました。さらに,1794年2月25日,彼は彼が英国への領土割譲と呼ぶものを獲得しました。しかし,英国政府は,それに全く着目しませんでした。
 彼が1793年に訪れたとき,バンクーバーはカメハメハに,当時はまだ聖アンドリュー十字と聖ジョージ十字からできていた英国船舶旗(red ensign)か英国旗(Union Jack)を与えました。バンクーバーが三度目の訪問で10ヵ月後に戻ってきたとき,彼はカメハメハの邸宅の前に,英国船舶旗(British ensign)がはためいていたのを見ました。15年後,ハワイを訪れた旅行者は,王の屋敷の最高位の場所に英国旗(British flag)があるのに気がつくのでした。
 カメハメハは,時折この船舶旗(ensign)を旗として使っていたようです。そしてこれが,全く非公式なものであったとしても,彼の最初の旗と思われています。この時点より以前のハワイの酋長が位の印として持っていたのは,羽の筒やローマ軍の長旗のような様々な形の長旗でした。
 1800年前後,カメハメハ大王は征服によってハワイ諸島を支配し,ハワイ王国をうち立てました。1810年までに彼は,他の島々から広く深く荒い航路によって隔たれて守られていたカウアイ島を除いた全島を支配下に納めました。この間,彼が旗を使ったとすれば,それは多分1793年にバンクーバー船長からもらった英国旗(British Union Jack)でしょう。
 一番最初のハワイの旗についての記録は,1812年の戦いのときのものです。最初のハワイの旗のデザインに完結した様々な事件がありますが,基本的な事実の本質については共通しているようです。戦争中,ハワイ水域で英国と米国との間で海戦があったことが証明されています。たとえば,英国戦艦チェラブはハワイ水域で何隻かの米国船を拿捕しました。
 ひとつの理由は,米国私掠船が入港して英国旗(British Union Jack)が翻っているのを見たことに基づいています。船長はカメハメハ王に謁見し,なぜ王が敵の旗を掲げているか説明して欲しいと尋ねました。カメハメハ王は,船長を喜ばせるために英国旗を降ろして,米国旗をあげるようにいわれました。米国私掠船が出港してすぐあとに,英国船が到着し,船長はなぜ彼の敵国の旗が翻っているか詰問しました。カメハメハ王は,旗の問題の解決なくしては,面倒なことに巻き込まれることを知りました。彼は,彼の助言者たちを集めました。英国旗と米国旗の両方をあげる計画は,放棄されました。議論の果て英国と米国旗の性格を併せ持つハワイの旗を持つことが決議されました。
 ロシアの航海士で探検家,ネルソンの元英国に仕えていたVasili ゴローニンは,1817年から1819年にかけて,ロシアのコルベット艦カムチャッカで二度目の世界周航に出ていました。1818年に彼はハワイに到着し,どのようにしてハワイの旗が作られたかを記憶に残しました。ゴローニンは書いています。

 彼(カメハメハ1世)は,バンクーバーから英国の旗(English flag)を得て,それがヨーロッパでどんな意味を持つのかも知らずに,その旗をいつも掲げていました。しかし,先の英米間の戦争のとき,ある米国人の船長が冗談に王に「敵の旗を掲げているのだから,米国はハワイを王から取り上げる権利がある」といいました。カメハメハがそれを注意深く聞き,旗の意味するところを知ったとき,王はその米国人に「予を馬鹿にしないでもらいたい。予はたくさんのヨーロッパ諸国の旗を持っているので,英国旗が良くないのなら,他のを掲げられるのだから」といいました。この事件以後,王はただちに英国が王のためにデザインした彼自身の旗を欲していると表明しました。


 ハワイの旗が最初に登場した正確なときは知られていません。でもロシアのコルベット艦RurikのKotzebue船長は,1816年にホノルルを訪れたときに,ハワイの旗が翻っているのを見ています。
 当時ハワイには文字がなかったため,ハワイの人が旗について書いたものは何もありません。1820年に宣教師が来るまで,ハワイの人々は文字を持っていなかったのです。
 知られている限りでは,ハワイの旗についての最初の記述は,1845年の政府の新聞である「ポリネシアン」に載ったもので,旗には8つの縞がありました。数年後,ハワイの新聞「クオコア」は1862年1月1日,旗についての歴史とカラーの図版を載せました。その話は,事実を知るべき人々がたくさん住んでいたとしても,当時は疑問にされたことがないもので,該当する部分は次の通りです。

 ハワイの旗は,1816年にカメハメハ1世がデザインしたものです。王は,白檀を売るために中国に船を派遣したいと思っていました。ジョン・ヤングとアイザック・デービス,アレキサンダー・アダムス艦長の協力で,王はこの旗を,王が所有している16門の砲を備える軍艦フォレスター号のために作りました。旗が作られてから,船はその旗が政府の旗であるとは全く認識されていないマカオや中国へ渡航しました。

 フォレスター号を指揮していたアダムス艦長は,マカオの港湾管理者が最初入港を拒否したので,莫大な手数料を支払わねばならず,ハワイの旗の認識の必要性を痛感しました。王の助言者の一人であったアダムス艦長は,この最初の旗のデザインに大きな役割を果たしたと思われています。

 しかし何人かの学者は,英国人で初期の段階でカメハメハ王に彼の船を売り,王の友だちで助言者としてハワイに残ったジョージ・C・ベックレー艦長の名前を,ハワイの旗のデザインを決定した最も重要な人物としてあげています。いくつかの報告では,この最初の旗はその後ベックレー艦長に与えられ,彼の家庭に残り,何年間か子どものドレスとして使われ,ついにし使用に耐えなくなって捨てられたとされています。

 この旗は,英国のユニオン・ジャックを上部左側におき,右側は上から赤・白・青のストライプの繰り返しだったと考えられています。この旗に,バンクーバー船長がカメハメハに最初に与えた旗にはなかった,1801年からユニオン・ジャックに加えられた聖パトリック十字があったかどうかについてはわかっていません。また,縞の数が7か8か9かについても論争があります。

 ストライプの色は,米国旗の色に合わせたものでしょうし,そのパターンは,アメリカの旗(American Flag,訳注:初期の米国の旗のことだと思われる)のストライプに似ています。ストライプの数は,オアフ(ホノルルに首都がおかれている),マウイ,カウアイ,ハワイ,モロカイ,ラナニ,ニイハウ,カホウラウェのハワイの主要な8つの島を表しているとして,1843年以降は8に標準化されます。今日,これらの島々で最初の6つは保養地として高度に開発され,ニイハウは個人的に所有され,カホウラウェには住民はいません。

 1820年以降米国のハワイに対する影響力は着実に大きくなってきました。その年の3月31日,最初のプロテスタントのニューイングランド宣教師団がハワイに到着しました。それからの35年間に,14のほかの宣教師団もやってきました。

 ハワイの旗が最初に登場してから10年以内に,それは米国でよく知られるものとなりました。1826年にウェイバーリー号とほかの2隻の船がハワイの旗をなびかせてカリフォルニア港に入港し,新しい貿易ルートを開きました。


 カメハメハ3世の治世の1842年に,ホノルルの英国領事が,街の価値ある土地が自分のものだと暴力的に主張し始めました。王がその要求を拒否すると,彼は危機的状況にあると訴えて助けを求めました。領事の訴えに応えてジョージ・パウレット卿が英国フリゲート艦キャリスフォートで到着しました。彼はハワイ諸島を強奪するつもりだったのです。パウレットの船の砲と脅しは王に暫定的に彼の王国を英国に譲るように強制しました。1843年2月25日,ハワイの旗は引きずり降ろされました。パウレット卿は,ハワイの旗を集めて,それらを全部破棄しました。そのため,その時代の旗は一つも残っていないのです。

 この状況下で王の助けを求める声明に応じて,ローレンス・カーニー准将は米国フリゲート艦コンステレーション号でホノルル港にやってきました。彼は,ハワイの旗を作らせ,彼の艦のマストの先に掲げさせました。現場にいたウイリアム・パティは1843年7月7日の彼の日誌に,「今日,若い酋長がコンステレーション号を訪れて,船を去るときに,我々はもう一度昔のサンドイッチ諸島の旗が翻っているのを見る栄誉を得た。このときのために作られた旗はフリゲート艦の船首に掲げられ,礼砲で敬礼された。」

 この事件のあと何日かして,英国太平洋艦隊司令官のリチャード・トーマス提督指揮下の英国海軍がホノルルに到着しました。まだ英国のユニオン・ジャックがハワイの首都に翻っていましたが,英国は王に対し,コンステレーション号に掲げられた旗について言及し,英国旗以外のどんな旗に対しても敬礼しないようにと抗議しました。

 しかしそれから,1843年7月31日に,はなやかで印象的な儀式がホノルルで開催され,トーマス提督は,英国政府はカメハメハ王は独立主権者として取り扱われるべきであり,王を彼の王国に戻し,ハワイの独立を欲することで,2月のパウレット卿がやったことを元に戻すという声明を読み上げました。トーマスは,ユニオン・ジャックを降ろして,現在トーマス広場として知られているところに,以前のハワイの旗を掲げました。

 このとき不注意により,縞の順番が,初期の旗の赤・白・青から白・赤・青になってしまいました。この間違いが正されることはなく,以降のハワイの旗の縞の順番は,この例に従うこととなりました。
 1843年7月にトーマスが旗を掲げた日,旗の縞の数は8に標準化されました。旗のことは,1896年のハワイの法令第10章にこう記述されています。

 国旗(national ensign)は,上から白・赤・青の繰り返しの8つの平行縞と,竿側の上部のカントンに小旗を置いたものよりなるべし。小旗は,青地に組み合わされた赤と白が交差する斜め十字,白が優先で,斜め十字のそれぞれの赤側には白の狭い縁取りがあるものよりなるとする。白で縁取られた赤十字は,ずべての前面に置く。小旗は,旗の縦の長さの半分で,横の長さの7/16である。赤十字の太さは,平行縞のひとつの太さと等しくし,縁取りの白は,赤十字の幅の三分の一とする。

 当時発行された色見本には,組み合わされた斜め十字の太さは赤十字と同じとし,白と赤と縁取りの色は,3:2:1とするとありました。組み合わされた十字は,聖パトリック十字,聖アンドリュー十字,聖ジョージ十字を含んでいます。このハワイの「ユニオン・ジャック」は,英国のユニオン・ジャックの習慣とは対照的に,単独でハワイの旗や船首旗として使われることはありません。
 1849年から1851年にかけて,フランスがハワイ諸島を奪おうとして失敗したことがありました。ハワイ王は,ハワイ諸島を米国の保護の元に置くという秘密の宣言を準備しました。フランスがこのことを知って撤退しました。しかし,ハワイの旗は,その間中もずっと首都の上に翻っていました。
 1854年の交渉はハワイの米国への併合を進めるものでしたが,王の死によって,これは中止になりました。
 1887年までにハワイ諸島に対しての米国の影響は,真珠湾に入港し,石炭と海軍基地を維持することに繋がりました。ハワイについての米国の農園主と商業的利権は,年を追うことに増大し,1890年までには,ハワイの経済と政治の強力な要因となっていました。ハワイ人とは異なる地域的利権と政治は1893年の王国に危機をもたらしました。
 その年の,米国公使ジョン・L・スティーブンスの協力により,ほとんど米国人のハワイにおける利権により指揮され扇動された革命は,リリウオカラニ女王の政権を転覆させました。米国海兵隊が上陸しました。暴力と流血の脅しの中で,1893年1月17日に女王は退位させられ,臨時政府への関与を放棄しました。

 臨時政府は,米国公使スティーブンスに,ハワイを米国保護領にするようにと要請しました。彼は1893年2月1日に,そのようにしました。その日が米国旗がハワイ諸島に翻った最初の日です。革命臨時政府とスティーブンス公使は,ハワイ併合についての米国との交渉を始めました。
 ハリソン大統領は,これを達成する条約にサインしました。しかし,以前の上院は,クリーブランド大統領を就任させ,条約を引っ込めました。
 リリウオカラニ女王は,彼女の政府の転覆に米国軍隊が使われたことに抗議し,クリーブランド大統領は,事件の全容の調査を命じました。調査報告により,大統領は,王国を女王に戻すように命じました。このようにして,間違った二ヵ月のあとで,米国旗は降ろされ,4月1日にハワイの旗が再び掲げられました。
 この状況下で,革命側は主導権を握っていました。彼らは大統領の命令に従うことを拒否して,サンフォード・B・ドールに率いられて,女王に退位を強いました。1894年7月4日,ドールを大統領としたハワイ共和国を作りました。ハワイ共和国は,その旗としてハワイの旗を使い続けました。翌年反政府叛乱がありましたが,成功しませんでした。数ヵ月のうちに,いくつかの外国政府と米国はハワイ共和国を承認しました。
 米国への併合の動きはなくなったわけではありませんでした。そしてついに1898年7月7日に議会は併合案を可決しました。8月12日に,ハワイ諸島は,米国領土へ編入されました。ハワイの旗は,最後の日まで共和国に翻っていました。以降,ハワイの旗は,変化せずに準州旗となりました。しかし,議会がハワイ準州を成立させる基本法を可決して,完全な米国準州としての政府とその市民権を認めたのは,1900年4月30日のことです。
 1959年8月21日にハワイが50番目の州になったときに,それまでのハワイ準州旗は,州憲法第8条第3項により,州旗となりました。州旗としての旗は,ハワイの公共施設に翻っています。
 この旗は,米国と関連して現在も残るどんな旗よりも長く多彩な歴史を持っているのです。

 



現在のハワイ王

http://www.freehawaii.org/hhist.html より翻訳

 1993年にクリントン大統領と連邦議会は,合衆国政府がハワイの女王を不当に監禁し,ハワイ国を占領したことについて,ハワイの人たちに公式に謝罪するPublic Law 103-150に署名しました。しかし,どんな方法においても,ハワイ国の主権を戻し,100年間の占領に対する賠償は,約束していません。

 1998年に,アカヒ・ヌイ陛下がハワイ王として戴冠しました。彼は,リリウオカラニ女王の姉妹の子孫で,かねてからハワイ王国のパスポートで外国を旅してきました。彼は国連によって,ハワイ人民の象徴であると認められています。ほかの独立派の団体も,「国際司法裁判所に提訴するのなら王を通じて」と言ってきています。すでに彼は,合衆国を除いてかつてハワイ王国と条約を交わした国々との条約を更新しています。王が,法を取り戻そうと性急に行動するものたちを忍耐強く並ばせることができるように,馬鹿な選択をしないように,賢く正しい相談役に囲まれるように祈りましょう。王の目の前にあるやるべきことを達成できるように,神の恵みがあらんことを祈りましょう。

 若者による見られるいますべてが変わることを望むものたちがいるので,ハワイの平和を祈りましょう。2000年に国連は,植民地化されて祖国を失ったすべての人々に自由を与えることを約束しました。これがどのような影響を与えるにせよ,変化は穏やかで平和的であることを祈りましょう。

 もしあなたが励ましの言葉で王にコンタクトを取りたいと思うなら,そしてもしそれが励ますものであるなら,私はそれを見せて良いかどうか点検します。このことは,様々な独立主張団体の宣伝役をするという意味ではなく,また王の許可を得て書くことでもありません。私は,王に何が起こっていて,何をなすべきかの個人の見解として見せます。私は,ハワイアンに土地の回復をやめろと思っているのではありません。私はただ,それが平和に進むことを願うのです。ハワイアンが土地を回復しても,アロハの精神を失ったのであれば,それは横暴な国家権力を他のものに取り替えたのに過ぎなくなってしまいます。


ハワイ王国軍

 ハワイ王朝は「無血」クーデターで転覆されました。「なぜ王国軍は女王を守ろうとしなかったのか」とても不思議でしたが,荒俣宏『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』を読んでよくわかりました。信じられないことに,ハワイ王国には正規軍がいなかったのです。ハワイ軍は志願兵が100名ぐらいで,それも戦争で戦うことなど想定していなかったというのです。

 かつてのハワイ諸島は群雄割拠の状態で,カメハメハが統一を果たしました。そのイメージだと,日本の戦国時代のように,強力な軍隊がいたように想像するのです。しかしカラカウア王のときには,軍隊は存在していません。これはどういうことでしょう。欧米諸国軍にとてもかなわないので軍備を放棄したのでしょうか。

 しかし,これでハワイが何度も英国やフランスにいとも簡単に占領されてしまう理由がよくわかりました。(2001.6.18)



外国人と鉄

 ハワイの人たちは,次々とやってくる外国人たちに何を求めたのでしょうか。実は,それは鉄なのです。ハワイは火山島のため砂鉄がないのです。



◎ハワイの独立旗

 辻原康夫 『世界の国旗大百科』 人文社 2001.4 2800円

 に載っていたものです。誰がいつ作ったものかは不明。中央は,ハワイ王室のシンボルだそうです。まずこの旗について明らかにすべく調べてみました。








・Nation of Hawaii

 http://www.hawaii-nation.org/index.html

 この旗は,この「ハワイ国」のサイトにありました。「HAWAI’I Independent & Sovereign」となっていて,ハワイの独立と主権を求めています。「HAWAI’I」という書き方にどんな意味があるのかは,まだ不明ですが,おそらく「ハワイ語」での「Hawaii」という表記なのでしょう。

野戸谷睦さんより「ハワイは現地語でもともとハワイイという。それを意識した表記」と教えていただきました。感謝です。(2001.5.21)  

 この旗は「ハワイ独立旗」で,http://www.hawaii-nation.org/flag.htmlより翻訳します。

 ハワイ独立旗は,上から白・金・黒の横縞の三色旗です。黒と白は,それぞれ旗の4分の1ずつを占めて金が残りの真ん中を埋めています。金色の中央には,紫のカヒーリ(儀式の時に使う先端を羽根で飾った高いポール)を置きます。
 白と黒は,天と地,昼と夜,陰と陽などの物事の釣り合いを表しています。金色は,金色の光のように純粋な高貴な生命の完全な人間’ohanaを表しています。紫は,「アロハの精神」の後見人であるハワイ諸島の原住民,Na Kanaka Maoli,を表しています。
カヒーリは,’ohanaの指導者により発案された,天と地をつなぐ交信の古代的象徴です。カヒーリは,精神的保護と癒しの力を持つハワイの神聖な植物であるセンネンボクの葉La'iに抱かれています。

 固有名詞によくわからないものがあります。ハワイの歴史についての勉強が必要なようです。(2001.5.15)

 ハワイの歴史に関する洋書に当たって,'ohanaとはfamilyのことだとわかりました。この部分は『世界の国旗大百科』では,「家族的人類愛」と表現しています。しかしそうなると,「'ohanaの指導者」というところが意味不明。「家族」といっても特定の集団を指すような気がします。(2001.5.16)

Patrick V. Kirch ほか 『ANAHULU The anthropology of History in the Kingdom of Hawaii』 The University of Chicago Press によると,'ohanaは「地域的血縁集団」を指すようです。だから旗の説明の'ohanaも「人類全体」を指すのではなく,「昔からのハワイの人々」を表しているのだと思われます。(2001.5.17)


Michael Dougherty 『To Steal A Kingdom』 Island Style Press 1992 には,'Ohanaの詳しい説明が載っていました。以下に翻訳します。(2001.5.18)

 'Ohanaは,共通の目的のため結合し拡張された家族を意味する。それはしばしば他者に対する永続的責任を伴う個人間の関係を含んでいる。'Ohanaのいくつかの構成要素は以下の通り。

 Laulima  多くの人手,仕事目的の関係で仕事を分け合う,
 Kuleana  個々の責任の範囲
 Kokua   集団作業の遂行において各自の特技を発揮させること
 Haki-like  huki-huki(ばらばらに引く)の反意語で,一緒に引く
 Hanai   養子縁組のシステム
 Ho'okama 友情の縁組,それによって大人同士が義兄弟になる

 

 FOTWのサイトにこの旗のことが載っていました。http://fotw.vexillum.com/flags/us-hi-im.html#klh

それによると,

 

Nation of Hawai'iは,ハワイ諸島の原住民の血を引く独立賛成派の団体です。

とのこと。


 またこのサイトには,以下のような旗も載っていました。

Ka Lahui Hawai (Polynesian Sovereignty Movement)
ハワイ民族旗(ポリネシア主権回復運動)

 名前以外の情報は載っていませんでした。この旗の★が9つなのが興味深いです。(ハワイ諸島では人が住んでいるのは8島)この運動についても調べてみたいものです。(2001.5.17)


 日本旗章学協会の協力により,この旗についての情報を得ることができました。この旗にある星は,航海の際の目印であった「すばる」を表しているのだそうです。(2001.7.12)

 詳細は次のサイトにあります。www.kalahui.com.







・ハワイ独立旗について

 日本旗章学協会の事務局長である高野観さんのご協力により,独立旗について詳しいことがわかりました。そのサイトの管理者であるスコット・クロフォードさんによると「この旗は1994年に採用され,主に Mr.Pu'uhonua "Bumpy" Kanaheleによってデザインされた。」とのことです。そして「多くの人々は次のように思っています。われわれはハワイ王国の国旗を使い続けるべきだと。しかしこの旗はいわゆる”ハワイ州”の旗として現在使われています。(もっともかつてのハワイ王国の旗は2対3ではなく、3対5の比率でしたが)」という情報もありました。米国に併合されて州旗となっている旗よりは,より独立を主張する全く違うデザインの旗を使ったと言うことなのでしょう。もともとのハワイ王国旗が3:5の比率というのもおもしろいです。以下に高野さんが受け取ったメールを高野さんが翻訳してくれたものとボクが翻訳したものを載せておきます。(2001.6.7,6.12)


アロハ!高野さん

 この旗は1994年に採用され、主に Mr.Pu'uhonua "Bumpy" Kanaheleによってデザインされました。

 しかし、次のことに留意することは重要です。それはあの時以来、ハワイが独立王国であることを一時もやめることはなかったという事実ををますます明確にしたことです。ハワイ王国は日本と条約を結びましたがこの条約は国際法上無効になってはいません。

 多くの人々は次のように思っています。われわれはハワイ王国の国旗を使い続けるべきだと。しかしこの旗はいわゆる”ハワイ州”の旗として現在使われています。(もっともかつてのハワイ王国の旗は2対3ではなく、3対5の比率でしたが)


 ハワイ王国の旗は次のURLにあります。

http://www.HawaiianKingdom.org/img/kingdom_flag.gif
[旗の画像がある。丸山]

 もしあなたがこの旗の背景についての情報をもっとお知りになりたいなら、私は喜んでそれを提供します。
 次のURLをご覧になればとても面白い話が書かれていますから御覧なさい。:

http://alohaquest.com/arbitration/news_polynesian_0012.htm
[このサイトの情報は下記で。丸山]


敬具
Scott Crawford
web site maintainer


▼以下は丸山の翻訳。

アロハ,観さん

 日本人とハワイの人々との間には,とても深遠で興味深い友情の歴史があります。公式にはいまだ有効な日本とハワイとの間の条約は1871年8月17日に調印されました。1880年代の世界旅行の途中でカラカウア王は日本を訪れました。王の到着のとき,日本の皇室音楽隊はハワイの国歌を演奏しました。カラカウアは,日本の天皇と等しく並んで歩くことを許された最初の人物です。そしてカラカウアは,ハワイ王室の姫を日本皇室の王子と結婚させる提案をしましたが,それはうまくいきませんでした。カラカウアは,ハワイへの日本移民を増やそうとつとめました。そしてカラカウアは,他国に許されていた日本の港での治外法権を含む条約の不平等条項を認識し正そうとした最初の人です。
 第二次世界大戦のときに,ハワイだけが米軍がいたために,それを目標として日本軍に爆撃されました。私たちは,敗戦後のあなた達のように,今米国によって占領されています。ただ日本との違いは,占領が100年を越え,その違法性が闇に放り込まれて
しまったことです。

 最近になってますます,ハワイの日系米国人は,ハワイ人の主権回復の試みにとて
も協力的になってくれています。

http://www.hawaii-nation.org/jacl.html

 日本とハワイの国家と国民の間には,強く長い友情が確かに存在します。そして,私たちは,将来もこの友情が続くことを願っています。私たちの歴史を学び,私たちの独立を助けるため発言してくれる日本のあなたのようなひとがいるので,私たちは私たちの友情と通商と航海の条約を新たなものとしてもう一度結ぶことができるでしょう。

マハロ(訳注,=ありがとう)
スコット クロフォード


・ハワイ独立旗消滅

 Nation of Hawaii( http://www.hawaii-nation.org/index.html)から,いつの間にか「ハワイ独立旗」がすべて姿を消していました。その旗があったところは,すべて別の旗になっています。その別な旗とは,ハワイの旗です。こうなるとなぜ独立旗を使うのをやめたのかが気にかかります。そこでこのサイトに質問してみることにしました。さてどんな回答だったでしょうか。

予想

 ア ほかの独立主張団体と協調するため
 イ 米国に配慮して
 ウ 将来のハワイ国の国旗にちなんで
 エ ハワイの旗はこれしかないから
 オ そのほか





















 上記のクロフォードさんからの返信によると,

 「独自の旗をつくることによる混乱よりも,将来の独立ハワイ国の国旗になるであろう王国旗を使うことに決めたのです。」とのことでした。ハワイが将来米国より独立するとしたら,その国旗はたしかに王国旗に違いありません。

 クロフォードさんは,このメールでも,「ハワイ王国旗と準州や州の旗とは縦横比が違う。州旗は2:3だが,王国旗の方は3:5で横長だ」と述べていました。しかし,ボクの手持ちの文献のハワイ州旗は2:1です。うーん,調べてみたくなりました。(2001.10.3)

 しかし,いつの間にか,旗はまた独立旗に戻っています。(2001.12)





・Kingdom of HAWAI’I

http://www.freehawaii.org/

 このサイトには,「ハワイ王国旗をソロモン諸島の首相に贈呈した」としてその写真が掲載されています(http://www.freehawaii.org/solomonis.html)。そこから旗の部分だけを抜き出したのが,左の写真です。

 州旗(ハワイ王国旗)の8つの横縞そのままに,中央にハワイ王国の紋章をおいています。一番上の縞には「ハワイ王国」と書かれています。一番下の縞にも何か書かれているようですが,読みとれません。

 上記の「ハワイ独立旗」と比較すると,ずいぶんと主張が違う気がしますが,「中央が王家の象徴」というのは同じです。右の図が紋章の部分です。この旗も,誰がいつ制定したかについてはわかりません。

 この紋章で興味深いのは,横縞がある部分です。そこだけ青の縁取りがあるため,縞が9つあるようにもみえるところです。というのも・・・・『The World Encyclopedia of FLAGS』には,9つの縞があるハワイ王国旗が載っているからです。





 この旗は,かつての「王旗」であったことがクロフォード氏の協力により判明しました。


◎ハワイ国王旗

 荒俣宏ほか訳 『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』 小学館 1995

には,「カラカウア王が日本の港などに入港するときに船に王旗を掲げた」という記述とハワイの旗の図が載っています。旗の図の方に引きずられてボクは「王旗というのは王国旗の間違いだろう」と思っていました。

 しかし,クロフォードさんからこの本の一節を紹介されて,それに彼が「注:王旗は国旗とは違う」と書いていたのを読んで,はっとしました。よく考えれば,ハワイは王国ですから,王旗があって当然ですし,船舶には常時国旗が掲げられているはずですから,わざわざ「入港のときに国旗を掲げる」というのは変な話なのです。それに,王旗は「王族が乗船している」というのを示すために掲げるのです。

 さて,こうなると王旗がどんな旗だったのかがとても気になります。そこでクロフォードさんに頼んでいくつかそのイメージを見せてもらうことにしました。




ブリグ型帆船カアフマヌ号とシルフィー号

船尾に国旗を掲げ,中央に王旗が翻っている。

「ハワイ公文書館」のアレキサンダー・アダムス・コレクションより

アダムスは1817年の中国への航海で艦長としてカアフマヌ号を指揮した。



 ハワイの王旗は,国旗からユニオンジャックを除いたものに王家の紋章を中央に配置したものだったのです。この絵には,全く感動してしまいました。

 しかし,この絵がその当時に書かれたものなのかは疑問です。というのも,ここに描かれている国旗は,1845年に正式制定されたものだからですし,文献には,1817年のこの二隻の船には「赤・白・青の7本の縞からできていた」とあるからです。

 またこの王旗は,「Kingdom of HAWAI’I」のサイトに載っているものと同じだということがわかります。つまりそのサイトの人たちは,王旗を掲げることによって自分たちの正当性を主張しているわけです。

 ケアヌ・サイ氏によると「王旗は1815年頃につくられ,1890年代まで国の支配者によって使われていた」ということです。

 




 パトリック・カヌアイさんからは,次のような写真をもらいました。


1995年のカラカウア王の栄誉をたたえる式典でのイオラニ宮殿の階段に並ぶ楽隊と警護隊

 右側にある旗は,王旗だと思われますが,縞がない旗です。


 また,クロフォードさんが教えてくれた ウェブスターのサイト(http://www.m-w.com/cgi-bin/nytmaps.pl?hawaii)には,興味深いことが書かれていました。


 「ハワイ王国には,海軍旗と船首旗もあった」というのです。そういえば,何かの文献で「ハワイ王国旗は,英国旗と違って単独に船首旗として使われることはない」と書いてあったのを思い出します。つまり「船首旗は別のデザインのもの」ということなのです。

 ハワイ海軍は,おそらくたった1隻の船からなっていたようです。その船には海軍旗が翻っていたのでしょう。『カラカウア王とハワイ海軍』という洋書を古本で見つけて注文しているところです。(2001.10.19)



















最初のハワイ王国旗

 『The World Encyclopedia of FLAGS』(115ぺ)にあるハワイ王国旗は,縞の数が9で,色の順番も違い上から赤・白・青が3回繰り返されます。これは1815年から25年まで使われていたハワイ王国の国旗です。115ぺから翻訳します。

 

 初めて星条旗に似た国旗を採用した国は,ハワイでした。抜け目のない政治的手段でハワイの王は,彼の国の旗に,太平洋でもっとも影響力のある国の象徴を合わせたのです。それは英国のユニオンジャックに,米国船舶旗の三色の縞を合わせたものでした。

 この本は,縦横比にも気を遣っている本なので,この王国旗も39:59(=2:3)で描かれています。しかし,ハワイの旗はずっと1:2の比率のはずですが,初期のものだけは比率が違ったのでしょうか。また「1815年から1825年まで」とする根拠がわかりません。

 現在のハワイの旗は,1845年に採用されたもので,縞の数と色の順番が最初の旗と異なっています。


 カメハメハが作った最初のハワイの旗がどんな旗だったのかは,正確にはわかっていません。それは,当時ハワイにはまだ文字がなく,記録がなかったからです。さらに,英国が一時ハワイを占領したときに,当時のハワイの旗を全部焼却してしまったからです。だいたいはっきりしているのは,「カントンにはユニオンジャック」「赤・白・青の縞」ということです。縞の数や,ユニオンジャックに聖パトリック十字があったかどうかもはっきりしていません。


 この本には「初期の米国海軍旗」として次のような旗が載っています。


 ハワイの旗が英国旗と米国海軍旗か船舶旗の組み合わせであることは,明らかです。






















文献に見る初期の王国旗

 独立主張団体のサイトである「Nation of Hawai`i」のサイト管理者である,スコット・クロフォードさんから,とてもおもしろい情報を教えてもらいました。

 『The Polynesian』2001年3月号 に,「初期のハワイの旗」についての特集記事が載ったのです。『ポリネシアン』紙は,もともとハワイ王国政府が1845年から発行し始めた週刊の広報誌で,法律や布告などものっていました。『ポリネシアン』紙は,予算不足のため1864年の第20号でうち切られました。「米国の不当なハワイ占領」を撤回させるために,1864年の憲法に基づいて「ハワイ王国政府」を再現した人たちがいます。彼らは「ハワイ王国政府」というサイト(http://www.hawaiiankingdom.org/index.shtml)をつくり,2000年9月には『ポリネシアン』紙を月刊で復活させました。

 この,『ポリネシアン』紙の記事によると,初期のハワイ王国旗についての文献を紹介しています。それに基づいて王国旗をつくってみました。

 このあと文献に基づいて整理してレポートします。(2001.10.12)

ハワイ王国旗
疑問の解決

『ポリネシアン』2001年3月号より

 『ポリネシアン』紙のスタッフは,ずっと「ハワイの旗のデザインを実証する出典を出すように」と数え切れない場面で要求されてきました。英国のユニオン・ジャックのシンボルを上部左側の角に,そして8本の赤・白・青の縞を置いたのが,ハワイ王国の国旗です。1845年5月25日に,立法府はこのデザインの旗を国旗として採用しました。唯一旗に加えられた変更は,王国の主要八島のシンボルを表すものとして,縞がひとつ加えられたことです。そのデザインと起源は,カメハメハ大王にまで遡ります。

 今日,王国内には「この旗はハワイ王国のものではなく,ボーレット卿がすべての王国旗を燃やしてしまった後に,英国当局によって1843年7月31日に押しつけられたものだ」と主張する動きがあります。大切なのは真実です。

 この記事では,1843年以前のハワイ王国旗についての歴史的文献を公開することとした。これらの文献は,「ハワイ公文書保管所」からのものです。ここで,読者はハワイの旗の歴史の真価を認めるとともに,我々の国家的象徴が「1843年に英国当局から押しつけられたものだ」とする疑いを晴らすことができるでしょう。


(以下は表にする。旗の図は筆者が作成。)




記事 

画像

ボクのコメント

出典 

1809.1.29  「王の住居には英国旗が掲げられていた」 「英国旗」はおそらく船舶旗のこと。しかしパトリック十字があったかどうかはわからない。 Campbell, Archibald, A Voyage Round the World, [etc.], 1st Eng. Ed.1816, p. 129; 2nd Am. Ed., 1819, p. 89.
1816.11.27 「港には砦があって,カメハメハの旗が掲げられていた。英国政府はどこででも彼の旗に敬意を払った」

 『The World Encyclopedia of FLAGS』より。おそらくこれが最初の王国旗。 Kotzebue, O., A Voyage of discovery...in the ship Rurick, Eng.trans., London, 1831, Vol. I, p. 321 & 324.
 
1816.11 「ユニオン・ジャックのない,赤・白・青・白・赤・白・青・白・赤の9つの縞の旗が砦にあった」 これは米国船舶旗によく似ている。この旗と英国旗を合わせて王国旗をつくったのではないか。これが海軍旗かも。 Choris L., Voyage pittoresque autour du monde, Paris, 1820
1816 「二隻の船舶が,先に制定されたばかりの国旗を掲げていた。それは英国のユニオンと主要な島を象徴する赤・白・青の7本の縞からできていた」 この船は,中国にまで航海したものなので,この旗が有名になったであろう。 Jarves, J.J., History of the Hawaiian or Sandwich Islands, Honolulu,1847, p. 103.
1818.10 「旗は,7つの島を表す赤・白・青・赤・白・青・赤の7つの縞と角にある英国のジャックからできていた」
「縞の数はカメハメハ政府の支配下にある7つの島を示す。残りの4つの島はカウアイ島の支配者に属しているが,彼はハワイ王に敬意を払い,毎年船一杯の白檀を王に差し出す約束をしたハワイ王の下の総督でしかない」
縞が7本は説得力がある。 Golovnin, V.M., Voyage around the world on the ship "Kamchatka,[etc.], Collected works, St. Petersburgh, 1864.
1819.8 「サンドイッチ諸島の旗は,我々がカワイハエーやホノルルの砦で見たのと同じく,9つの白・赤・青の縞と英国のジャックからできている」 現在の州旗に似ている。 Freycinet, L.C.D. de. Voyage autour du monde...sur les corvettesl'Uranie et la Physicienne. Vol. II, p. 621, Paris, 1837.
1823.9 旗の木版画がある。9つの暗い縞と明るい縞の繰り返しに,縞の上部5本分の高さのユニオン・ジャック。色は不明。 縞の色は赤・白か? G.F. Mathison, Narrative of a visit to Brazil, Chile, Peru and the Sandwich Islands, London, 1825, p. 464.
1824 ハワイ諸島の旗のカラーの図。7本の赤と白の縞。ジャックは上部3本分の縞の高さ。 青縞がなくなるのは,より米国旗に似せようとしたから? J.W. Norie, hydrographer. The maritime flags of all nations, A new edition, 1824, London.
1825.5-7 「式典の間中,サンドイッチ旗がこれらの砦に掲げられていた。それは,7本の白と赤の縞とユニオン・ジャックからできていた」 それともフランスの影響を排除するためか?なんの式典か? Graham, Maria, Voyage of H.M.S. Blonde to the Sandwich Islands, Lord Byron, commander, London, 1826, p. 121.
1834.4 「それぞれの部隊は青・白・赤縞にユニオン・ジャックをつけたハワイの旗を掲げていた」   Bennett, F.D., Narrative of a whaling voyage round the globe (etc.),London, 1840, Vol. I, p. 206.
1840 「砦の中央には旗竿がそびえ,そこには国旗(赤と白の縞にユニオン・ジャック)が掲げられていた」   Olmstead, F.A., Incidents of a whaling voyage, New York, 1841, p.195.
         
         


 旗の画像は,情報の不足しているところは筆者の想像で補って作成している。そのため妥当といえないところもある。(2001.10.13)

















古書にあるハワイの旗

     
鱸奉卿編
『萬國旗章図譜』
臨江堂
 1852 
 
著者不詳
内外國旗章』
発行者不詳
 1872?
 
遠藤茂苹浄書
『内外国旗暗誦表(一百旗章)』
京都五書房
1872(明治5)
  日本旗章学協会の苅安会長からのコメント
「当時の日本の旗本はオランダ乃至英国のフラッグチャートを写したものが多いので内外国旗暗誦表の色順は次の通りと考えられます。
  r/w/r/w/r/w/r/w/r
 これは手持ちの1897年英国刊行『Flags of All Nations』に掲載されているSandwich Islands 国旗と同じです。
 但しこの旗は実は英国東インド会社旗と全く同じデザインで誤って欧州で作成された国旗一覧表に掲載されたものがそのまま日本に伝わり内外国旗暗誦表に転写された可能性が有ります」
道本揚声・御園生万吉
『各国旗章明鑑』
軍港堂
1898(明治31.10)
  ハワイ王国旗も載っている。この本が出版されたのは,ハワイ共和国時代の併合条約可決(98.7)後のものである。だからすでに存在しない王朝の王旗が載っているのには,意図があると思われる。しかも王旗は「天皇旗」と書かれている。
 年代的に見て,ハワイの旗は現在のものに確定されたあとのものなので,このふたつの旗は間違っていると言えるかも知れない。しかし,情報が伝わるのが遅れたと考えれば,「過去のハワイの旗」を示しているとも考えられる。しかし『国旗章』のものは,明らかに間違いであろう。しかし『萬國旗章図譜』のものは,縞の配色や数から言って初期のハワイの旗のひとつだと思われる。(2001.8.23)

 『国旗章』のハワイの旗も間違いではないことが判明。なぜなら文献にはその旗も載っているからである。







◎ハワイ関連旗

英国船舶旗

米国船舶旗(18世紀後半〜19世紀初頭)

大連合旗(初期の米国旗)
1775-1777

米軍艦レキシントン海軍旗
1777


・英国船舶旗(Red ensign)
 この旗は,現在は民間用船舶旗であるが,当時は民間も海軍も使っていた。ハワイ王室に献上され,ハワイ王国ではこの旗を国旗として掲揚した。図は1801年以降のもの。それ以前のものは聖パトリック十字がない。

・大連合旗(Grand union flag)
 正式名称は「Continental colours」(大陸旗)。統一した旗のなかった米植民地連合はじめての象徴旗と考えられている。米軍艦レキシントンを描いた絵画では,3色縞の国旗が掲揚されている。初期には,こういう配色のものも多くあった。

・米国船舶旗(Marchant ensign,”American Stripes”)
 18世紀後半の米植民地連合や米国の商用船舶旗。13本の筋の数は共通しているが,配色には赤白のものと赤白青のものがあった。

       
東インド会社旗 東インド会社船首旗      

・東インド会社旗
 最初の米国国旗とそっくりであるが,偶然の一致ということ。この旗も1801年以前のは,聖パトリック十字がない。

・東インド会社船首旗(Jack)
 縞は9,11,13のものがそれぞれあった。

・ これらについて特に参考になった文献。

 Timothy Wilson 『Flags at Sea』 National maritime museum & Naval institute press 1999


ハワイの旗の歌

 パトリック・カアノイさんのウェブ・ページ「THE HAWAIIAN FLAG」(http://members.aol.com/lvhalau/hawflag.htm)には,たのしい情報がいっぱいです。ここで「ハワイの旗の歌」というのを見つけました。

 これは,1862年1月1日の「クオコア新聞」からのもので,著者は不詳です。「クオコア」とは「独立」という意味だそうです。それを,1943年11月16日に真珠湾にある「旗会館」(Hall of Flags)にハワイの旗を入れようとする「ハワイの旗計画」で英語に訳されたものが,このウェブ・ページに載っているわけです。英語は堅苦しく古いものでしたが,訳してみると,旗への思いが伝わってきて感動しましたので,全訳を掲載します。(2001.10.17)

ハワイの旗
著者不詳 「ハワイの歌」 クオコア新聞 1862.1.1


あなたは翻る旗
あなたの広げた翼の下で守られて
王と庶民によってハワイに平和が訪れるように
槍を手に,ハワイからニイハウまで力強くあなたを翻した
カメハメハ大王によって採用された
ハワイの威厳ある象徴

あなたにある十字は,ブリタニアの希望
ヨーロッパ諸国によって求められた栄光

あなたは昔の旗
この島々を槍を持ちて統合し,ハワイの設立を確たるものとした
すべての人々に平穏の中で生きる平等を与えた
ハワイの偉大な戦士
カメハメハ大王の頃の

私たちは彼の偉大な業績に喜び,喜び続ける

私たちの頭上に翻れ
ハワイの王族も
私たちの女王エマ
イオラニ宮殿の王もあなたを守る


イオラニ宮殿の小公子は
カプアイワ酋長で思い出される
カロヘラニ首相と一緒で
運命づけられた王族の母の血統

海はハラの花で清められている。

あなたのはためきは
ここハワイの人々に
求められていた平和と光をよびこむ

何年か前
あなたはあなたの礎から引きずり降ろされた
1年もたたないうちに
恵みあふれるトーマス提督の手によってあなたの尊厳は戻された
愛おしく覚えている人
彼の年回忌がもうすぐやってくる
そのときも翻りますように
おお 最も美しい旗
ハワイの独立の象徴

ここに
あなたの愛する臣民に
「ハワイの独立」新聞によって名付けられた
他には例がないほど素晴らしい
あなたの人民に
あなたの姿を見せる

そしてあなたはハワイの人々の美しい装い。
ホノルルの海に
ずっとあなたが翻るように

私たちはずっと大事にする
あなたの名前の永遠の尊厳を

ああ,ハワイの旗よ,ああ,ハワイの旗よ
カメハメハ4世の島々の旗よ






◎ハワイの旗 縦横比の謎

 クロフォードさんから「王国旗は3:5で州旗は2:3」と聞いていたボクは,いろいろな文献に州旗が2:1で載っているのを見て戸惑いました。そして調べてみると,州法にはっきりと規定されていました。


「ハワイ改正州法」http://www.capitol.hawaii.gov/hrscurrent/Vol01_Ch001-042/hrs005/HRS_5-19.htm

より翻訳。


第5項の19 「ハワイの旗」

(4)割合は次の通りとする。

 (A)横の長さは縦の長さの2倍とする。


 しかしこれは現在の規定です。王国旗が3:5で,併合後2:3になってから,2:1へ正されたのかも知れません。「旗のデザインは変わらなくても,縦横比を変える」ということは,大いにあり得ることだからです。「旗のデザインは王国旗を尊重したが,縦横比変える」という意味があったのかも知れません。そう予想を立てると,まず知りたいのが,1816年の最初の王国旗ですが,これは資料が全くありません。しかし,カメハメハが最初に掲げた旗は,バンクーバーからもらった英国旗(おそらくred ensign)です。では当時の英国船舶旗の縦横比はどうだったのでしょうか。

Red Ensign

1707-1800

by Phil Nelson(FOTW









 この旗の縦横比ですが,次のような記述を見つけました。

 「1700年代初期の縦横比は5:9。1837年ぐらいからそれが1:2となった。」
 David Prothero,(FOTW) gb-enshs.html


 カメハメハはこの5:9の旗に似せて王国旗をつくったと考えられます。しかし,カメハメハは英国旗だけでなく,米国旗やフランス国旗も参考にしたはず。


 ・フランス国旗 2:3
 ・ロシア帝国旗 2:3
 ・米国旗 約1:2

 これらの旗の比率を平均して3:5の王国旗をつくった??うーんかなり怪しげ。

 そうしているうちに「THE HAWAIIAN FLAG」というサイトを見つけました。そこにはおもしろい情報がたくさん。しかも,作者のパトリック・カアノイさんは,北米旗章学協会の会員。そこで早速ハワイの旗の比率についてEmailで問い合わせてみました。

 返事が来て,びっくり。彼は,旗を定めた州法の著者だったのです。彼は「昔も今もハワイの旗は2:1」といいます。さらに「3:5という比率については思い当たることがある。米国旗の縦横比は10:19だが,ふつうに商業的に売られたりして使われている旗の比率は3:5だ」というのです。「なぜ商業的には3:5なのか」と問い合わせたところ,「州旗の比率は州毎に違う。そこで商業的には,国旗も含めて一律3:5とする。正式な比率の国旗は政府や官公署で使われる」という返事をもらえました。これならカメハメハも「間を取って3:5」というのもあるかも???

 さてクロフォードさんからは,さらに驚くべき事実が寄せられました。

 「ハワイのイオラニ宮殿に掲げられているハワイの旗は2:1ではない」というのです。これにはびっくり。何でも,「イオラニ宮殿の館長が,宮殿に掲げる王国旗の正しい縦横比を調べるために研究して,解明した」ということなのです。クロフォードさんは来週にその館長と会って詳しい話を聞いてくれるそうなので,その結果によってはまた驚くべき事実が出てくるかも知れません。

 「電子レンジ」のときは,嫌でたまらなかった英文メールのやりとりが,いまはこんなにたのしいのはなぜ?と自分でも不思議です。だって,みんな旗がすきだからねぇ。

(2001.10.5)


 カアノイさんから返事が来て,なんと「イオラニ宮殿後援会の会長がいっている〈旗の比率が異なっている〉というのは正しくない」とのことでした。これはもう十年以上もハワイの旗を研究していて,「比率は全く同じである」という結論を出していました。


 さてクロフォードさんからの返事では,「イオラニ宮殿の館長の研究の結果,王国旗の比率は2:1であった。しかし館長は,現在の州旗は2:1ではないといっている。州法の規定は2:1であるのに,これはミステリーだ。現に私が持っている州旗(公式なものではないが)は,59インチ×35インチで明らかに2:1よりも短い。私は王国時代の旗を持っている人を知っている。彼女に聞けばその比率がわかるだろう」とのことでした。

 しかし,59:35の旗は,約3:5の比率で,これは「商業用の州旗」と想像できます。クロフォードさんにカアノイさんを紹介して,クロフォードさんが知っているハワイ王国旗の比率を教えてもらうのをたのしみにしています。(2001.10.9)




スミス博士の本より

 Whitney Smith 『The Flag Book of The United States』改訂版 William Morrow & Company, Inc. 1975 より

 ハワイの部分(130ぺ〜134ぺ)を翻訳し画像もつけておきます。どうもハワイの旗についての記述の多くは,この本が典拠文献になっている気がします。















HAWAII

 ハワイ諸島の統一に成功したカメハメハ一世は1793年に探検家のジョージ・バンクーバー艦長から英国のユニオン・ジャックを受け取りました。翌年の2月25日,王は彼の島々の非公式の英国保護領化を受諾しましたが,英国議会はそれを批准しませんでした。1816年まで,1801年以前のものと以降のものの両方(4-cと4-e)のユニオン・ジャックが非公式なハワイの旗として翻りました。このときまでに,ハワイの人々は,外国の旗を使う長所と同じぐらいの短所があることを認識しました。1816年にカアフマヌ号が外国へ渡航するハワイ最初の船として中国へ航海したときに,ユニオン・ジャックに赤・白・青の横縞を付け加えた特有のハワイの旗を掲げました。この旗は,アレキサンダー・アダムスとアイザック・デービス,ジョン・ヤングの協力のもと,王がデザインしたものですが,後にジョージ・ベックレー艦長がデザインに関わったとして主張しました。初期の何年間か,ハワイの旗に一定のデザインはありませんでした。22-bのイラストに描かれた形式は,通常の形式ですが,同時代の絵や記述には様々なもの(9本ではなく7本の縞,青縞がない,など)があります。


4c

4e

22b


 19世紀を通じてハワイ王国は合衆国,英国,フランス,その他の国々が示した併合の脅威に対して独立を守るべく闘いました。1843年2月25日から7月31日まで,英国軍はハワイを占領し,すべてのハワイの旗は破棄されました。自由が戻ったとき,鳩とオリーブの小枝を加えたハワイの旗が掲げられ,カメハメハ三世はそれを見つめていました。それから彼は後に国(現在は州)のモットーになった「この地の命は正義によって保たれる」というフレーズを含む感謝の祈りを捧げました。

22c

23-a

23-b


 1845年5月20日,22-cのように多少変更された国旗が採用され,縞の数はハワイの主要な島々を表すものとして8とされました。フランス人は,1849年に占領していた短い間,ハワイの旗を降ろしませんでした。1851年の別のフランス人による占領を妨げるために,王と議会は一時的に米国保護国となる法案を承認しました。ハワイの旗の裏側に米国旗を縫いつけた新しい旗が用意されましたが,この計画が実行に移されることはありませんでした。1887年にハワイは船首旗と船舶旗を採用しました。

 王に次ぐ権力者である摂政の1850年代の旗(130ぺを見よ)は,白地に王冠と職名のイニシャルを赤文字で入れたものです。別の王家の紋章であるハワイの国章(131ぺを見よ)は,ハアリリオ大酋長によって独自にデザインされたものです。この紋章の盾と王冠は王旗(23-a)の中央にも描かれています。王旗の背景と紋章の第1クォーターと第4クォーターには,国旗の縞を表しています。盾持ちは,カメハメハ1世のハワイ統一に助力したカマナワとカメエイアモク兄弟で,彼らの忠誠は,羽の外套とかぶとに表れています。カマナワは国力のシンボルである槍を持ち,彼の兄弟は王の特権を示すカヒーリ(羽の旗竿)を持っています。盾の第2と第3クォーターには,王宮のドアのそばに置かれる保護の紋章であるプロウロウがあります。中央にあるのは,アリア(交差した槍)と宗教的象徴として宮殿のドアの近くに掲示されるプエラ(三角旗)です。プエラはまた古代のハワイの酋長たちによって旗のように彼らの船に掲げられました。

 19世紀最後の10年間に,アメリカの移住者と商業的関心は,ハワイの米国への併合を煽動しました。ついに1893年1月に,これらの団体を代表する改革党がクーデターを実施し,リリウオカラニ女王を退位させました。彼らの暫定政府が米国併合の知らせを待っている間,2月1日から4月1日まで米国旗がハワイに掲げられました。併合が拒否されたとき,ハワイ共和国を作ることになりました。この政権は1894年からハワイが米国領となった1898年8月12日まで続きました。暫定政府,共和国,準州,州(1959〜)の元,1894年,1903年,1959年に法制化されたように,ハワイは以前の国旗を保ち続けました。
 王国の国章を元にして,Viggo Jacobsenが1896年に共和国が認めた新しい国章を作りました。今の盾持ちは,カメハメハ1世とハワイの旗を持つ自由の女神で,王冠の替わりに日の出があり,底部には不死鳥があり,タロの葉とシダの茂みとバナナの葉に囲まれています。中央のアリアとプエラは立州を願う星に替わりました。1901年と1959年に国章は国璽としてふさわしいように,最初は準州のために次はハワイ州のために変えられました。

 1925年ウォーレス・R・ファリングトン知事は,副司令官のP.M.スムート大佐に,彼の前任者がデザインした知事の旗について報告するように頼みました。なんら法的根拠を見つけられなかったので,スムート大佐は赤縞の上に青縞の地に8つの白い星で囲まれたTH(ハワイ準州の頭文字)の白文字が中央にある旗を提案しました。これは1925年3月14日に採択されました。1959年の旗(23-b)は新しい州の知事が使用できるように,イニシャルに替えて「Hawaii」の文字を入れました。


130ぺ(摂政の旗)

131ぺ(王国国章)

134ぺ(現在の州章)







◎ハワイアン・キルトの謎

 『ハワイ語-日本語辞典』には,左のような写真が載っています。これは,ホノルルのビショップ博物館(Bernice P. Bishop Museum)に展示してあるキルティングです。

 王家の紋章の周りをハワイの旗が取り巻いていますが,不思議なことに,旗はみんな裏返しです。ふつうはユニオンジャックが左側にするものだからです。そこで「このキルティングじたいが裏返しなのか」と思って,紋章をよく見ると,紋章は左右が反対にはなっていませんから,全体としてもこれで正しいことになります。

 一番驚くのは,旗の縞の順番です。もしユニオンジャックがある方を「上」とすると,「赤・白・青」の順番となり,初期のハワイ王国旗と同じ順番ということになります。縞の数は8で,英国占領後にできた旗と同じです。

 このキルティングはいつの頃作られたものなのでしょうか。もしこのキルティングが英国占領前の初期の王国旗を元にして作られているのなら,このキルティングは初期の王国旗を示す貴重な資料となります。つまり,「最初のハワイの旗は,聖パトリック十字があるユニオンジャックをカントンに配して,赤・白・青の8本の縞があった」ということになるからです。

 旗を裏返しにデザインしているところなど,「旗の用法をよく知らなかったのではないか」と思えるところもあり,「初期の旗説」もなかなかいいと思いますが,有名な博物館に展示されているものですから,いろんな研究者も見ていることでしょう。とすると,「なんちゃって」に終わるか?

 


 うーん,これはビショップ博物館に行くしかないか。いや,次回の研究会はハワイで。(2001.8.8)

 「これは旗を縦位置で置いているのだから,裏返しではない」という指摘を野戸谷さんからいただきました。ありがとうございました。(2001.8.11)

・HAWAIIAN QUILT RESEARCH PROJECT

http://alaike.lcc.hawaii.edu/openstudio/hqrp/hqrp_index.html

 なんとハワイの古いキルトを集めて研究している「ハワイアンキルト研究事業」というサイトを発見しました。そしてなんとそこには,このキルトが載っているではありませんか。ちょっと違うデザインのものですが,このハワイの旗を使ったデザインはハワイアンキルトに特有なもののようです。

Nani Ahiahi
(lit., Evening Beuaty)
Appliqued, pieced, quilted
Maker unknown,
before 1918
Mission Houses Museum


 このキルトでの旗は,横位置のものとなっており,配色は現在のハワイの旗と全く同じものです。製作が「1918年以前」となっていますから,上記のビショップ博物館のものが,これよりも古く1845年よりも古いとボクの予想は当たりになるのですが・・・・。

 サイトによると,ハワイのキルトには数種類の特徴的なデザインがあり,そのひとつがこのハワイの旗をモチーフにしたデザインのものとのことです。また,なぜハワイの旗をモチーフにしたのかというと,「愛国心の表現のため」だったとのことです。これはなおさらおもしろい。(2001.10.4)






ハワイの旗の意味

 ふつうハワイの旗は,上記のように「英国のユニオンジャックと米国旗を合わせたもの」と説明されます。しかし,おもしろい説明を見つけました。


http://www.netstate.com/states/symb/flags/hi_flag.htmより

The eight alternating white, red and blue stripes represent the eight islands of Hawaii. The British Union Jack represents Hawaii's historical relationship with Great Britian as its protectorate. It also represents a stylized puela (a triangular standard laying across two crossed spears called an alia) which is the symbol of the Hawaiian ali'i.

8本の白赤青が繰り返される縞は8つのハワイの島を表しています。英国のユニオン・ジャックはハワイの英国の保護下にあったという英国との歴史的関係を表しています。またそれは,ハワイの王族の象徴する様式化されたpuela(aliaと呼ばれる2本の交差した槍の上に置かれている三角形の長旗)も表しています。

ユニオン・ジャックが王の旗を表しているなんておもしろい。この出典は次の本からのようですので,注文してみました。

Rita D. Haban 『How Proudly They Wave: Flags of the Fifty States』.

(2001.8.4)

 出典はこの本ではありませんでした。(2001.10.2)



ハワイの旗の変遷

「ハワイ関連旗年表」 Hflags.PDF 671KB

 ハワイの旗と関連すると思われる諸外国の旗の変遷を年表形式でまとめました。この資料は,発表を前提としていません。個人的研究用資料としてお使いください。それ以外の使用をお断りいたします。(2001.8.7)




 FOTWのサイトに簡単な説明があります。http://fotw.vexillum.com/flags/us-hi.html


歴史
 Quaife, Weig, Appleman著 『The History of the United States Flag』からの要約。

・合衆国州旗だけが,王国,準州,共和国,そして州それぞれの旗として掲げられてきた。

・バンクーバー船長は1793〜94にかけて英国とハワイの国交を樹立し,英国への領土の割譲を獲得した。しかしながら英国政府は,それに注意を払わなかった。彼は彼が後に訪れたときに名誉の場所に掲げられているのを見ることになる英国船舶旗(red ensign)を王に与えた。

・1812年の戦いの間,ある米国人が「なぜカメハメハ王は敵の旗を掲げているのか」と聞いた。王は,それを降ろして,合衆国旗を掲げた。同じことが英国船が入港したときに起こった。トラブルを避けるため,彼らは二つの旗をひとつに合わせることにした。

・英国人のアダムス艦長は,明らかに王のために旗のデザインを手伝った。しかしながら,何人かの学者は,「それはベックリー艦長だ」としている。

・横縞の数は一定していなかったが,主要な8島を表すものとして,1843年以降は8本に標準化された。1843年に英国は明確にハワイの独立を宣言し,儀式ではハワイ国旗を掲揚した。しかし,この旗には,間違いがあり,縞の順番が白・赤・青になっていた。これがなぜ今の旗が,赤・白・青の縞の順番ではないかという理由です。

 『The History of the United States Flag』という本は,Amazonで探したところ,現在は発行されていないようです。中古で発見したので,発注しました。

 また次のような記述もあります。表にして旗を加えてみます。

 日本旗章学協会の苅安会長の研究成果を追記しました。疑問があるので,問い合わせているところです。(2001.11.9)

年表    

日本旗章学協会苅安会長の説

1794-1816

国旗として英国旗を掲揚。(1801年以前は,聖パトリック十字がないものを使用) 1793-1815
1816-1843 現在の旗の初期バージョンを掲揚 1815-43

この旗のデザインは初めて見る。出典が気になる。
1843.2.25-.7.31

英国による占領。すべてのハワイの旗は焼却された。 英国旗か赤船舶旗かで英国の意図はかなり違ってくる。ユニオンジャックには聖パトリック十字が入っているはず。
1843.7.31

未入手

カメハメハ3世今日の州のモットーにその一部がなっている有名な演説を感謝祭でする。鳩とオリーブの葉を含むハワイの旗が掲げられる。  
      1843年ー1845年5月20日
多くの文献でトーマス提督があげた旗は「白赤青」の順であるとしている。だからこの旗には疑問がある。
1845.5.20

現在のハワイの旗が採用される。 以下は同じ
1893.2.1-4.1

合衆国旗が掲げられる。  
1894

ハワイ共和国,ハワイの旗を国旗として再び採用。  
1898-1959 ハワイ準州,ハワイの旗を使う。法制化は1903。  
1959- ハワイ州,ハワイの旗を使う。法制化は1959。  
 

 ここで「ハワイの旗」=「ハワイ王国旗」=「ハワイ州旗」=”Hawaian Flag”。

 この表にハワイの政治体制の変化や国旗の図を加えていきたいものです。(2001.5.17)

 1893に掲げられた米国旗は,★が46のものです。当時の米国旗は45。ハワイの州としての併合を主張したものです。ここにあげた旗は,実際の46州の米国旗で,1893年に掲げられたものとは,星のデザインが違っているかも知れません。この旗は,FOTWからのもので Rick Wyattさんによって描かれた画像です。 (2001.6.12)



・ハワイ州のモットー
 

 ハワイ語,英訳,和訳

Ua Mau ke Ea o ka Aina i ka Pono "The life of the land is perpetuated in righteousness" この地の生活は正義の内に永続される。


「life」について「independence=独立」と注釈しているサイトもありました。



◎逆さまハワイの旗

上記のKingdom of HAWAI’Iサイトによると,「逆さにしたハワイ王国旗(州旗と同じ)は,難破した国家の象徴で,いまやハワイ諸島でよく見られる」とのことです。

 こうやって逆さまにすると,縞の色順が最初のハワイ王国旗と同じになることに気がつきました。




◎ハワイと他国との条約文

http://www.pixi.com/~kingdom/hawaiis.html

には,ハワイと他国の条約文が国別にすべて英文で載っています。そのうち日本との条約を和訳してみました。日本との条約はこれだけです。日本人の名前や地名の綴りが変です。当時の日本は旧暦だったのですね。さて内容は,不平等条約だったのでしょうか。それとも?また天皇を「Tenno」と表記しているのには感動しました。Emperorではないのです。(2001.6.1)


前文
 王と日本の天皇の間の友好通商条約は,1871年8月19日Yeddo(江戸)にて合意に達した。それは王と天皇により批准されたもので,互いに調印し交換された条約文は以下の通りである。

 2ヵ国間に友情の関係を設立するために等しく鼓舞されたハワイ諸島の王と日本の天皇は,その目的のために,全権大使を任命して,相互に有利な,条約を締結することを決めた。つまりハワイ諸島の王と,王によって権限を委任されたC.E.De Long特命全権大使は 日本天皇と外務省のSawa Iusanme Kiyowara NoluyosheとTerachima Jusee Fugiwara Munemori外務省一等書記官と最大限の敬意を払って会談し以下の条約に合意した。

第一条
 ハワイ諸島の王と日本の天皇,それぞれの後継者の間と彼らのそれぞれの臣民の間に恒久的な平和と友情をおくものとする。

第二条
 調印した2ヵ国のそれぞれの臣民は,自由にかつ安全に船で荷物とともに,貿易が許可されている他方の領土のすべての場所,港,河川に行くことができる。調印した2ヵ国の領土内に永住するか就労する市民や臣民に課される税を払うことによって,常に与えられるであろう特権を享受するか,もしくは今後他方の国の市民や臣民になることを認められても良い。臣民は,そのような港やそれぞれの場所に滞在したり,住んだり,家屋や倉庫を借りたり使用したりしてもかまわない。また合法的な商品やすべての生産物や製品を貿易しても良い。

第三条
 調印した二カ国は両国の政府に駐在する外交官,貿易が許可された領土内の港や場所に駐在する領事やその職員を任命する権利を持つ。それぞれの国の外交官と領事は職権と司法権を執り行い,その国での当然もつすべての特権と免除,そしてこれから最恵国の同じ程度の職員として持つすべての特権と免除を享受する。

第四条
 ハワイ政府とその臣民は,すでに認められている,もしくはこれから他国の政府,市民,臣民に天皇が認める自由と等しい特権,免除と有利な立場が許される。

第五条
 日本国政府は法定資格において,ハワイ臣民による日本人のどんな雇用においても制限を加えない。
 外国人に雇用されている日本人は,開港されている港の長官に申請次第,海外渡航のためのパスポートを得ることができる。

第六条
 この条約の改定は,必要性をはっきりさせるための両国へ事前に半年前の通告を経て,相互の同意によりなされる。

第七条
 この条約はハワイ諸島の王と日本の天皇により江戸にて条約と同じ日付で批准され,ただちに発効する。

 両国の全権大使がこの条約に署名した。

 1971年8月19日(明治4年7月4日)江戸にて署名された。

 

C.E. DE LONG.
SAWA IUSANME KIYOWARA NOLUYOSHE.
TERACHIMA JUSEE FUGIWARRA MUNEMORI.

 



ハワイと外国の条約

 上記のサイトの情報を歴史年表を加えて表にしました。表がとても大きいため,PDF形式で公開します。

 平等条約か否か,ハワイの表記についても書き込みました。(2001.8.9)

  「ハワイと諸外国との条約一覧」   Htreaty.PDF 9KB


 タイトルをクリックするとダウンロードします。このファイルはPDF形式です。



・「ハワイ王国」が国際社会で認知されたのはいつか

 条約を調べていておもしろいことに気がつきました。それは条約文にハワイのことがなんと記されているかです。最初はハワイではなく,サンドイッチ諸島です。それがハワイ諸島にかわり,ついにはハワイ王国となります。

締結月日,相手国,内容 ハワイの表記
1826 12.23 米不平等条約 サンドイッチ諸島
1827    
1828    
1829    
1830    
1831    
1832    
1833    
1834    
1835    
1836 11.16 英不平等条約 サンドイッチ諸島
1837    
1838    
1839 7.17仏不平等協約 サンドイッチ
1840    
1841    
1842    
1843    
1844 2.12英不平等通商協定 不明
1845    
1846 3.26英条約,10.19デンマーク条約 サンドイッチ諸島(英),ハワイ諸島(デ)
1847    
1848 1.8ハンブルグ条約,1.25デンマーク・ハ合意 ハワイ諸島(ハ),ハワイ王国(デ・ハ)
1849 12.20 米平等修好通商条約 ハワイ諸島
1850    
1851 7.10英平等通商条約 不明
1852 4.5 スウェーデン・ノルウェー平等修好通商条約 ハワイ王国
1853 11.24仏郵便協約 ハワイ王国
1854 3.27ブレーメン条約 ハワイ王国
1855    
  以下略  

 1842年からハワイ王国政府は諸外国に向けて独立承認交渉をはじめました。同年米国大統領は「独立国ハワイ」と表現。1843年,英国軍人によるハワイ占領の後,英仏王による「ハワイ王国独立宣言」。しかし,米が条約文において「ハワイ王国」と表記したのは,1875年のものが最初でした。

 1849年のフランスによる占拠事件のあと,米国は初めて平等な立場の条約をハワイと締結します。その後「ハワイ王国」は世界に認められていったようです。(2001.8.3)


ハワイ共和国の旗

 Ruth Tabrah 『Hawaii  A History』 W.W.Norton&Company 1980

 これは,American Association for State and Local HIstoryという団体が出しているStates and the Nationシリーズのうちの一冊です。この本には旗についての記述が多くたのしめます。この本より問題を出します。


 1893年1月,米国海兵隊がホノルルに上陸し,臨時政府が「王制廃止」を宣言しました。そのとき臨時政府が掲げた旗はどんな旗でしょうか。

 米国旗,ハワイ王国旗,そのほか




  その後樹立するハワイ共和国政府はハワイ王国旗をそのまま国旗として採用します。だからこのときもハワイの旗は変化しなかったようにも思えます。しかし実際は,ハワイ王国旗は降ろされました。そしてかわりに掲げられたのが米国旗でした。しかしこの米国旗は,本国で使っている米国旗と同じものではありませんでした。その頃の米国旗は,45ヶの星があったのですが,ハワイに掲げられたものには,星が46ヶついていたのです。つまり,「ハワイを第46番目の州として米国に併合する」というのがこの「革命」の目的だったのです。


 ではその後のハワイ共和国がハワイ王国の旗を採用したのはなぜでしょうか。







104ぺより訳出

 「ハワイ共和国」という名称は,少数の独裁者たちによって採用されました。彼らにとって,共和国の高官は一時的なものに過ぎないと思っていたので,王制の元のハワイの旗が共和国のために新しくデザインされたものになるかどうかなどどうでもいいことでした。1894年2月14日の『ハワイアンスター』紙は,旗の変更についての社説を載せました。

 熟慮すべき別の問題があります。それは原住民の望みです。彼らは国家に関する多くのものを失いました。もし彼らが王国旗を懐かしがるのであれば,そのままにしておくのが一番かも知れません。親切で平和を愛するこれらの人々は,今もこれからも国家の一部で,不必要に辱めてはなりません。我々は,彼らが「クロスとストライプ」(訳注 ハワイ王国旗のことだと思われる)を求めているとは知りませんでした。もしそうであるなら,その感情にもっともっと配慮すべきでしょう。そうでないのなら,なぜ玉座や禁断の杖,羽のマントや消え去った時代のほかのしるしとともに,王国旗もしまい込んでしまわないのでしょうか。

 


 王制を廃したものの,ハワイの米国併合には,その後数年間を必要としました。ハワイの人たちの慰撫のためにハワイ王国旗は残されたようです。



ハワイの歴史

 この本からどんどん訳出していきます。

◆第3章 偉大なコハラの首長 23ぺ〜

 強さと鋭い洞察力と野望のハワイ島コハラの大首長カメハメハは,島の歴史の中での好機に達していた。強欲な目でクックの「発見」に着目した外国勢力の植民地的野望に対して,各首長国単独では全くの無防備状態であった。最初に戻ってきたのは英国人ポートロック艦長とディクソン艦長で1786年だった。同じ年,LaPerouseと彼の二隻のフランス船も島を訪れました。18世紀後半はそれらの人民にとって独立と自治政府の時代であった。しかし,英国,フランス,スペイン,オランダ,ロシアのような野心的植民地帝国からは,ハワイの人々は,そんなふうには考えられてはいませんでした。13の新しく独立したアメリカの植民地が1786年に連邦を作ったのも,例外的なことだと考えられました。

 (途中は翻訳中)


26ぺ
 カメハメハは,これら外国人のいくつかの政府の植民地への野心についてなんら思い違いをしていませんでした。Meares艦長は,「神の摂理によりハワイ諸島は英国のものとなる」という確信を公言しました。バンクーバーは当然のようにカメハメハに彼の島々を英国保護領にするように説得しました。そしてカメハメハも等しく当然のように,彼の島を我がものにしようとする外国人に対して英国船の助けを得る約束の見返りとして,彼の支配地で英国船員を空腹から守ることだけを同意しました。スペインは植民地管理が重荷になってきていました。しかし,1791年にManuel Quimper大尉をサンドイッチ諸島の経済的潜在価値について調査するため派遣しました。太平洋に植民地を最も欲していたのが,英国とフランスでした。カメハメハは,このことによく気がついていました。彼は両国に対して個々に彼の近しい友として市民を受け入れ,両国の政府を重要視して等しく連合しました。

 1796年までに彼はマウイ,ラナイ,モロカイ,オアフの最終的な征服を達成していました。カウアイとニイハウだけはまだ彼の支配下にはありませんでした。彼は彼の首都であるカイルナ・コナからラナイの彼のお気に入りの漁場や急成長しつつあったホノルルの港へと移動し続けました。1800年には彼の艦隊,数百隻の戦闘カヌー,数千の兵士,彼が購入していた数隻の外国船,そして彼の王国の一員となったハオレ酋長と含むたくさんの外国人アドバイザーとともに,カウアイ北部の最後の酋長の領土を征服しに行きました。オアフとカウアイの間の90マイル(約150キロ)におよぶ荒れた海は,突然の嵐で彼の艦隊を窮地に陥れました。一年後,彼が二度目の挑戦を準備したときに,新しい外国からの災難,おそらくコレラ,がオアフをおそいました。カメハメハの部下は数百人が死亡して,彼自身も危険な状態となりました。それからの十年間,彼は征服を計画しましたが,そのための遠征に出ることはありませんでした。そのかわりに彼は,カウアイの支配者がカメハメハの支配下に入るかわりに,彼が生きている間は,彼が現在支配している2つの島をそのまま支配できる取り決めを交渉したのでした。米国人の艦長ウインシップ兄弟には,1810年にカウムアリイを説得しオアフに連れてきてこの条約を成立させる役目がありました。
 その見返りとして,カメハメハは,ウインシップ兄弟と彼らのパートナーの米国人ウィリアム・ヘス・デービスに白檀と綿の10年間の独占的輸出権を申し出ました。中国でのカイアナ酋長のように,貿易において王ほどだまされやすい者はいません。お金の使用は,今や一般的になり,供給量を上回って使われたのです。カメハメハの王国の経済的基盤は白檀貿易で急成長し,熱心な買い手である中国では,ハワイのことが「香りの山」と知られるようになりました。

 (つづきも翻訳中)

 やはりフランスとの関係も気になります。

 またカメハメハの大艦隊の兵力は,その後いつなくなってしまうのでしょうか。それが一番知りたいところです。(2001.7.30)



ハワイの州章


[質問]

 ハワイの州旗はハワイ王国旗のものと同じです。ではハワイ州章には,ハワイ王国の紋章などが入っていると思いますか。













 

 ハワイ州政府のサイトから翻訳します。

http://www.state.hi.us/about/symbolsandmonuments.htm

州章

 州章は,1895年ハワイ共和国のためにViggo Jacobsen によってデザインされたものです。この州章はハワイ王国の紋章を改変したものです。王家の紋章にはふたりの戦士が描かれていましたが,州章にはカメハメハ大王とハワイの旗を持つ自由の女神が描かれています。
 王冠は太陽とハワイが公式に州になった年,1959に置き換えられています。盾の中央にあった星は,帆に交差するカヌーのかいを置き換えたものです。
 盾の下にある不死鳥は新しく加えられたものです。他の部分では,紋章や王位を示すものは,新しいハワイを象徴するものに置き換えられています。
 州のモットーは王国のときと同じもの「Ua mau ke ea o ka aina i ka pono」(=The life of the land is perpetuated in righteousness.=この土地の命は正義のうちに永続される)となっています。

州旗

 ハワイ州旗は英国のユニオン・ジャックに似ています。なぜなら,カメハメハ王の側近の多くは英国人で,ハワイ諸島はかつて英国の保護下にあったことがあったからです。
 旗には,8つの主要な島を表す8本の水平縞と英国のユニオン・ジャックでできています。この旗は,王国,共和国,準州,州を通じてずっと使われてきました。

ハワイ王国紋章








ハーグに翻った王国旗


「ポリネシアン」紙 2000.12月号の記事におもしろいものがありました。
http://alohaquest.com/arbitration/news_polynesian_0012.htm(写真も)

 オランダのハーグにある国家間の紛争を解決する常設仲裁裁判所で2000年の12月,米国とハワイ王国の問題が持ち込まれたようです。そこにオブザーバーとして参加したAllen Kale'iolani Hoeさんが,ハワイ王国旗をハワイから取り寄せて,他の国旗と一緒に掲揚させたのです。
 あの旗のことはハワイ語では「Hae Hawai`i 」(=ハワイの旗,もともとの意味は白い縞のある赤いハイビスカス)というようです。国旗に対する思いを彼はこう書いています。

 多分多くのハワイの人と私にとって国旗は,我々が一つの国家であるという最も重要な象徴です。米国とハワイ州がその地位を葬ろうとしてきているにもかかわらず,それはかつて世界中のハワイ王国領事館で誇らしげに翻った我々の旗です。すべての真のハワイ人の夢と希望があるこのハーグの街にハワイ国旗を掲げてkupuna(祖先?)とともにこの瞬間を共有することなしに,この街を去ることはできなかったのです。

[中略]

 このようにして,私は,米国旗を下げ,ハワイ国旗を英国,フランス,オランダに並ぶ正しい位置へと掲げられたのを 大いなる誇りとともに見た証人となりました。これはハーグのScheveningsewegに沿って,「平和の館」の向こうがわにて実行されたものです。私の現在の夢は,生涯でこれをもう一度私の国で見ることができることです。



米国の謝罪

 国旗研究会で問題となったのは,「1893年の王朝転覆を実行したのは米国人なのか」ということです。その中には米国市民もいましたが,主体は米系ハワイ人です。1993年にクリントン大統領は,「王朝転覆に際して米国のとった行動を謝罪」しています。実は,これは大統領個人の意見ではなく,米国議会の両院で法的効力がある「合同決議」として作られた「法律」なのです。今回,その全文を入手しましたので翻訳しました。被告である米国は,クーデターの主役を誰としているのでしょうか。そして,そこにはちょっと驚いた事実も含まれていました。(2001.8.23)

Hawaiian Independence Home Page
http://hawaii-nation.org/publawall.htmlより翻訳

合衆国公法 第103-150号
第103議会 合同決議19
1993.11.23


 1893.1.17のハワイ王国転覆からの100周年を認識するために,そしてハワイ王国転覆に際して合衆国が取った行動に対してネイティブ・ハワイ人に謝罪するために。


 それゆえ,1778年にヨーロッパ人が最初に到達したときまでに,ネイティブ・ハワイ人は全住民が共有する土地保有と洗練された言語,文化,宗教に基づいて高度に組織された自給自足のと固有の社会システムの中で暮らしていた。

 それゆえ,ハワイ諸島を統一した王朝政府がハワイの最初の王であるカメハメハI世のもと1810年に設立された。

 それゆえ,1826年から1893年までに,合衆国はハワイ王国の独立を承認し,ハワイ政府に対しての外交上の承認を完璧なまでに広く拡張し,ハワイ王朝と商業と航海に適用される条約や協定を1826,1842,1849,1875,1887年に結ぶに至った。

 それゆえ,会衆派教会(現在では統一教会として知られている)は,その米国海外宣教委員評議会を通して,1820年から1850年の間に,ハワイ王国に100名以上の宣教師を送り込んだ。

 それゆえ,1893.1.14にジョン・L・スチーブンス(以降「米国公使」とする)米国公使は,合衆国市民を含むハワイ王国の非ハワイ人住民による小グループと共謀し,原住民のための正当なハワイ政府の主権と独立を譲り渡そうとした。

 それゆえ,ハワイ政府転覆の共謀を履行して,米国公使と現地の合衆国海軍代表は,1893.1.16に武装した合衆国海軍力をハワイ国の主権を侵害し,リリカラウオニ女王と女王の政府を脅迫するために,ハワイ政府庁舎とイオラニ宮殿の近くに配置した。

 それゆえ,1893.1.17の午後,アメリカとヨーロッパの砂糖農園主,宣教師と金融業者の子孫を代表する公安委員会は,ハワイ王朝を廃し,暫定政府の設立を宣言した。

 それゆえ,米国公使はその上に,ネイティブ・ハワイ人や正当なハワイ政府の承認を得ることなしに,国際法と二国間の条約を侵害して,共謀者たちによって作られた暫定政府を,彼の権限を越えて承認した。

 それゆえ,そのあとすぐに,レジスタンスによる流血の危険の情報により,リリウオカラニ女王は,暫定政府ではなく合衆国政府に女王の権限を従順させる次のような声明を出した。

 「ハワイ王国憲法のもとの女王,そして神の恵みによりて女王たる私リリウオカラニは,ここに,この王国に暫定政府を設立しようと要求した人たちによって,私とハワイ王国立憲政府に対してなされたすべてのことについて厳粛な抗議を行うものである。

「私は,米国公使ジョン・L・スティーブンス閣下によって暫定政府を援助するために引き起こされた合衆国騎兵中隊のホノルル上陸によるアメリカ合衆国の卓越した軍事力に恭順するものである。

「現在,武力衝突と人命が失われることを避けるために,私は,前述の武力に促され,抗議して,合衆国政府が現在起こっていることを正し,ハワイ諸島の立憲主権者としての私の地位を戻してくれるまで,私の全権を委譲するものです。」

 1893.1.17 ホノルルにて


 それゆえ,合衆国の政治軍事面での積極的な援助と介入なしでは,リリウオカラニ女王の政府に対する反逆は,民衆の援助の欠乏と武器の不足により失敗していただろう。

 それゆえ,1893.2.1に米国公使は米国旗をあげ,ハワイを合衆国保護領にすると宣言した。

 それゆえ,先の連邦議会議員であるジェームズ・ブラントによって指揮された反逆と1893.1.17の王朝転覆の事情を探るための大統領によって指示された調査の報告は,合衆国の政治と軍事の現地代表が彼らの権力を濫用したため,政府転覆に責任があると結論した。

 それゆえ,この調査の結果をもとに,ハワイの米国公使は彼の政治的地位を罷免され,ハワイ駐留の合衆国軍司令官は懲戒処分され,職務を解かれた。

 それゆえ,1893.12.18の議会への声明の中でグローバー・クリーブランド大統領は,共謀者たちの違法な行為について,「合衆国の政治的現地代表が明確な政治的意図を持って,連邦議会の許可なくして関与した戦争行為である」として表現し,詳細に報告し,そのような行為によって平和で友好的な国民の政府が転覆されたものと認めた

 それゆえ,さらにクリーブランド大統領は「本質的間違いがこのようになされた。傷つけられた人々が要求する権利と同様に我々の当然の国家的関心事であるから,我々は修復の努力をすべきである」と結論づけ,ハワイ王朝の復興を命じた。

 それゆえ,暫定政府はクリーブランド大統領の王朝復興の命令に抗議し,国家権力を維持し,合衆国への併合を追求した。

 それゆえ,暫定政府は上院の外交関係委員会(以降「委員会」とする)に圧力をかけ,王朝を転覆した事情の再調査をさせることに成功した。

 それゆえ,その委員会と委員長のジョン・モーガン上院議員,1893.12.27から1894.2.26まで公聴会を開き,暫定政府を正当化し,米国公使の行為を容赦し,ハワイ併合を推奨した。

 それゆえ,暫定政府はハワイ王朝の不法な転覆での合衆国の役割を覆い隠すことはできたが,併合条約の批准に必要な上院の3分の2の協力を得ることはできなかった。

 それゆえ,1894.7.4に暫定政府は,自らをハワイ共和国とした。

 それゆえ,1895.1.24にイオラニ宮殿に囚われの身であったリリウオカラニ女王は,ハワイ共和国の代表に正式に王位を捨てるように強制された。

 それゆえ,1896年の大統領選挙でウイリアム・マッキンレーがグローバー・クリーブランドにかわった。

 それゆえ,1898.7.7に米西戦争の結果としてマッキンレー大統領は,ハワイ併合を規定するニューランズ合同決議に署名した。

 それゆえ,ニューランズ決議を通して,自ら宣言したハワイ共和国はハワイ諸島の主権を合衆国に割譲した。

 それゆえ,ハワイ共和国は,ハワイのネイティブ・ハワイ人たちと彼らの主権政府に対してなんの承諾も補償もなくして,ハワイ王国の180万エーカーの王領地,官有地,私有地もまた割譲した。

 それゆえ,ニューランズ決議を通して,議会は割譲を批准し,合衆国の一部としてハワイを併合し,ハワイの島々の所有権を合衆国に帰属させた。

 それゆえ,ニューランズ決議はまた,ハワイと諸外国との間に存在する条約はただちに終了し,米国との条約に置き換わるものと明記した。

 それゆえ,ニューランズ決議はハワイ共和国と合衆国政府との商取引にも影響を与えた。

 それゆえ,原住民のハワイ人民は,住民投票にせよ,彼らの王朝を通すにせよ,合衆国に対して,彼らの国民としての固有の主権または国土を要求することを諦めたことはけっしてない。

 それゆえ,1900.4.30にマッキンレー大統領はハワイ準州の政府を準備する組織制定法にサインし,新しく設立された準州政府の政治的構造と権限,合衆国との関係を定義した。

 それゆえ,1959.8.21にハワイは,合衆国の50番目の州となった。

 それゆえ,ネイティブ・ハワイ人の健康と幸福は,彼らの土地に対する深い感情と愛着に本質的に繋がっている。

 それゆえ,19世紀から20世紀初頭にかけての長期にわたるハワイの経済と社会の変化はハワイの人々の人口,健康,幸福を荒廃させてきた。

 それゆえ,ネイティブ・ハワイ人は,彼ら自身の精神的伝統的信念,習慣,言語,社会制度の調和の中での文化的アイデンテティと先祖伝来の領土を保護し,開発し,次の世代に伝える決定をされた。

 それゆえ,民族間の調和と文化の理解を促進させるため,ハワイ州議会は1993年を,ハワイ人とアメリカ社会の中のネイティブ・ハワイ人の権利と尊厳を反映させる特別な年にするべきと決定した。

 それゆえ,1893年の不法なハワイ王国転覆に教団が歴史的に共謀していたことについて,統一教会の第18回総会は,教会代表にネイティブ・ハワイ人に公開謝罪し,統一教会とネイティブ・ハワイ人との間に和解の取り組みをはじめることを決定した。そして

 それゆえ,事件の百周年記念の差し迫ったこの好機の議会にとって,ハワイ王国の不法転覆の重要性を認識し,ネイティブ・ハワイ人に深い遺憾の意を表明し,ハワイ州,統一教会とネイティブ・ハワイ人との間の和解の努力を援助するのに,妥当で時宜にかなったものである。

 いま,ゆえに,それをなせ。

 議会を招集し,アメリカ合衆国の代表の両院により決定された。


第1項 認知と謝罪

議会は

(1)1893.1.17のハワイ王国不法転覆の100周年を迎えるにあたり,ネイティブ・ハワイ人の本来の主権を弾圧することになったこの時の歴史的重要性を認知する。

(2)ハワイ州,統一教会とネイティブ・ハワイ人との間に始められた和解を承認し,推進させる。

(3)合衆国市民と機関の関与した1893.1.17のハワイ王朝転覆と,ネイティブ・ハワイ人の自治権剥奪に対して,合衆国人民を代表してネイティブ・ハワイ人に謝罪する。

(4)合衆国とネイティブ・ハワイ人との和解のための妥当な財団を準備するために,ハワイ王国転覆の結末を認知する責任を表明する。

(5)合衆国大統領にもまたハワイ王朝転覆の結末を認知させ,合衆国とネイティブ・ハワイ人との間の和解の努力を援助させる。

第2項 定義

 この合同決議における「ネイティブ・ハワイ人」の言葉は,現在のハワイ州を構成する地域を領有し主権を行使した1778年までの原住民のそれぞれの子孫を意味する。

第3項 否認


 この合同決議は合衆国に対するいかなる要求の調停として執行されることを意図したものではない。

1993.11.23に承認された。





-----------------------------------------
「・・・この決議の論理的帰結は,独立であろう。」
スレイド・ゴートン上院議員


◎憲法から見るハワイ王国選挙権の変遷

 ハワイ王国は民主的な政治システムを取り入れて諸外国に独立国家として認められました。王国の人口構成上ネイティブの割合はどんどん減っていきましたが,ハオレもわずかでしかありませんでした。しかしその少数のハオレがハワイの実権を選挙で握ることになります。そこで選挙権の変遷に注目したわけです。(2001.10.2)


ハワイ王国憲法から関連箇所を翻訳

原文はhttp://hawaii-nation.org/legal.htmlより

■1840憲法

・貴族院[訳注:House of Nobles]
 [カメハメハIII世以下16名の名前がある。]
 前略
 ・・・ほかの者が議会に加わるべきかどうかは,法によって知らしめられる。
 後略

・代議院
 前略
 ・・・代議員はハワイ,マウイ,オアフ,カウアイの国民によって,彼らの願いに沿って選ばれる。法律が代議員を選ぶ方式と選ぶ人数について定める。
 後略



■1852憲法

第19条
 国民によるすべての選挙は無記名投票とする。

第20条
 すべての選挙人は,反逆罪,重罪,治安妨害罪を除いて,選挙日の不逮捕特権を有する。

第21条
 どんな選挙人も,戦時と社会的危機の場合を除いて,投票を妨げるために選挙日に軍務を強いられることがあってはならない。

第40条
 王旗[訳注:King's Standard]と国旗[訳注:National Ensign]は,現在のものを保持する。

[丸山注:国旗がensignとしてあるところからも,バンクーバーからもらった旗がred ensignである可能性が高くなる。]

第67条
 両院は,治安を乱す行いに対してそれぞれの議員を罰することができる。

第72条
 王は,第67条もしくは規定に従うことを条件として生涯その地位を保全される貴族院の議員を指名できるが,その数は30を越えてはならない。

第73条
 21歳に達していない者,王国内に5年以上暮らしていない者は,どんな者であれ貴族院議員となることはできない。
[丸山注:性別の制約はない。原文は”No person”]

第75条
 代議院は,毎年改選される24名から40名の議員よりなる。

第77条
 精神異常者や白痴ではなく,いつのときにも破廉恥罪で有罪宣告を受けたことが無く,25歳に達し,読み書きと計算が出来,少なくとも選挙の前1年以上王国に住んでいる男子臣民もしくは王国の市民権を持つ外国人居住者は,代議員の資格を持つ。

第78条
 ネイティブか帰化に関係なく,税金を払い,20歳に達し,少なくとも選挙の前1年以上王国に住んでいる,すべての男子臣民と王国の市民権を持つ外国人居住者は,精神異常者と王国内で破廉恥罪で有罪宣告を受けた者(王によって恩赦された者,恩赦によって臣民の権利を回復した者は投票が許される)を除き,選挙の前3ヵ月以上居住している選挙区の代議院選挙への投票権を持つ。



■1864憲法

[1852憲法の第19条「無記名投票」の条項削除]

第18条
 すべての選挙人は,反逆罪,重罪,治安妨害罪を除いて,選挙日の不逮捕特権を有する。

第19条
 どんな選挙人も,戦時と社会的危機の場合を除いて,投票を妨げるために選挙日に軍務を強いられることがあってはならない。

第38条
 国旗[訳注:National Ensign]は,議会の立法以外には変更されない。

第53条
 立法府は,治安を乱す行いに対して,議員を罰することができる。

第57条
 王は,第53条もしくは規定に従うことを条件として生涯その地位を保全される貴族院の議員を指名できるが,その数は20を越えてはならない。

第58条
 21歳に達していない者,王国内に5年以上暮らしていない者は,どんな者であれ貴族院議員となることはできない。
[丸山注:性別の制約はない。原文は”No person”]

第60条
 -前略-
 代議院は隔年毎に改選される24名以上40名以下の議員よりなる。

第61条
 精神異常者や白痴ではなく,読み書きと計算ができて,21歳に達し,少なくとも選挙の前3年間以上王国に住んでいて,不動産や合法的仕事により少なくとも年間250ドル以上の収入があるか,抵当の先取特権500ドル以上の自己所有の不動産を王国内に所持している男子臣民は代議員の資格を持つ。

第62条
 税金を払い,20歳に達し,少なくとも選挙の前一年以上王国に住んでいて,不動産や合法的仕事により年間75ドル以上の収入があるか,一年間に25ドル以上の賃貸料を得る土地貸借権を持つか,抵当の先取特権150ドル以上の不動産を所持し,1840年以降の生まれならば読み書きが出来,法の定めるところにより,選挙区の投票人命簿に名前が記載されているすべての男子臣民は,精神異常者と白痴,王国内で破廉恥罪で有罪宣告を受けた者(王によって恩赦された者,恩赦によって臣民の権利を回復した者は投票が許される)を除き,選挙区の代議院選挙への投票権を持つ。

第63条
 代議員の被選挙権と選挙権に必要な資産の量については法によって上げることができる。


■1887憲法


第18条
 すべての選挙人は,反逆罪,重罪,治安妨害罪を除いて,選挙日の不逮捕特権を有する。

第19条
 どんな選挙人も,戦時と社会的危機の場合を除いて,投票を妨げるために選挙日に軍務を強いられることがあってはならない。

第36条
 国旗[訳注:National Ensign]は,議会の立法以外には変更されない。

第56条 [貴族院議員の被選挙権]
 貴族院議員は,25歳に達し,王国内に3年以上暮らしており,王国内に地益権が3000ドル以上の課税対象となる資産を所有しているか年間の収入が600ドルを下回らない王国臣民でなければならない。

第58条 [貴族院議員選挙の方法]
 24名の貴族院議員は以下の方法で選出される。ハワイ島から6名,マウイ,モロカイ,ラナイ島から6名,オアフ島から9名,カウアイ,ニイハウ島から3名。この憲法下の最初の選挙で,代議院選挙と一緒に行われる1890年の統一選挙までの間の,貴族院議員が選出される。1890年の選挙では,3分の一ずつ任期2年,4年,6年として選出される。選挙人は,それぞれの選挙で任期6年として無記名投票をする。貴族院議員は無報酬である。

第59条 [貴族院議員の選挙権]
 ハワイ,アメリカ,ヨーロッパ生まれ,もしくは系で,20歳に達し,税金を払っており,選挙区の選挙人名簿に登録されているすべてのハワイ諸島の男子住民は,貴族院議員選挙人として,以下の条件に合致すれば投票できる。

第1条件
 国(訳注:country)に3年以上住んでいて,該当選挙区にも3ヵ月以上住んでいること。
第2条件
 抵当の先取特権3000ドル以上の自己所有の不動産を国内に所持しているか,実際に年間600ドル以上の収入を得ているもの。

第3条件
 ハワイ語と英語もしくはいくつかのヨーロッパ言語で印刷された新聞を読むことが出来,完全にその内容を理解することができるもの。

第4条件
 正式な監督官か選挙管理者によって監督されて「憲法と法を擁護する」と宣誓したもの。

 しかし,「3年以上の居住」と「ハワイ語と英語,またはいくつかのヨーロッパ言語で発行された通常の新聞を完全に理解できる」という条件は,この憲法が定める最初の選挙で登録し投票するならば,この憲法の発布時に王国内に住んでいる人々に対しては,適用されない。

第61条
 21歳に達し,ハワイ語と英語,またはいくつかのヨーロッパ言語の両方の読み書きができて,計算が出来,少なくとも選挙の前3年間以上王国に住んでいて,不動産や合法的仕事により少なくとも年間250ドル以上の収入があるか,抵当の先取特権500ドル以上の自己所有の不動産を王国内に所持している男子臣民は代議員の資格を持つ。

第62条
 貴族院の選挙人を規定する法と憲法を擁護する誓いをし,税金を払い,20歳に達し,少なくとも選挙の前一年以上王国に住んでいて,(1840年より後に生まれた者は)ハワイ語と英語,またはいくつかのヨーロッパ言語の両方の読み書きができて,法の定めるところにより,選挙区の投票人命簿に名前が記載されているハワイ,アメリカ,またはヨーロッパ生まれ,もしくは系の王国のすべての男子住民は,選挙区の代議院選挙への投票権を持つ。しかし,「少なくとも選挙の前一年以上王国に住んでいる」「ハワイ語と英語,またはいくつかのヨーロッパ言語の両方の読み書きができる」という条件は,この憲法が定める最初の選挙で登録し投票するならば,この憲法の発布時に王国内に住んでいる人々に対しては,適用されない。


第63条
 この憲法の規定と適合する選挙によって選ばれた者だけが,立法府である貴族院や代議院の議員となることができる。貴族院議員と代議院議員,貴族院選挙人の資産や収入の量については,法によって上げることができる。代議院選挙人の資産や収入は,法によって定められ,改められる。


■1893憲法草案

第18条
 すべての選挙人は,反逆罪,重罪,治安妨害罪を除いて,選挙日の不逮捕特権を有する。

第19条
 どんな選挙人も,戦時と社会的危機の場合を除いて,投票を妨げるために選挙日に軍務を強いられることがあってはならない。

第38条
 国旗[訳注:National Ensign]は,議会の立法以外には変更されない。

第53条
 立法府は,治安を乱す行いに対して,議員を罰することができる。

第57条
 女王は,第53条の規定に従うことを条件として生涯その地位を保全される貴族院の議員を指名できるが,その数は24を越えてはならない。

第58条
 21歳に達しないもの,王国に5年以上住んでいない者は,いかなる者も貴族院議員になることはできない。
[丸山注:性別の制約はない。原文は”No person”]

第60条
 -前略-
 代議院は隔年毎に改選される24名以上48名以下の議員よりなる。

第61条
 精神異常者や白痴ではなく,21歳に達し,読み書きと計算ができて,少なくとも選挙の前3年間以上王国に住んでいて,不動産や合法的仕事により少なくとも年間150ドル以上の収入があるか,抵当の先取特権500ドル以上の自己所有の不動産を王国内に所持している男子臣民は代議員の資格を持つ。

第62条
 税金を払い,20歳に達し,選挙の前1年以上王国内に居住し,抵当の先取特権150ドル以上の自己所有の不動産を王国内に所持するか,一年間の賃貸料25ドル以上の賃貸資産を所有しているか,不動産や合法的仕事により年間75ドル以上の収入があり,もし1840年以降の生まれならば読み書きが出来,法の定めるところにより選挙区の投票人命簿に名前が記載されているすべての男子臣民は,選挙区の代議院選挙に投票権を持つ。しかし,精神異常者と白痴,王国内で破廉恥罪で有罪宣告を受けた者(女王によって恩赦された者,恩赦によって臣民の権利を回復した者は投票が許される)を除く。

第63条
 代議員の被選挙権と選挙権に必要な資産の量については法によって上げたり下げたりすることができる。


ハワイ王国憲法に見る選挙権の変遷一覧  丸山秀一 2001.10

憲法

1840

1852

1864

1887

1893pro

無記名投票

記載なし

19条

記載なし

58条内

記載なし

貴族院

選出方法

名前で指定

王の指名

王の指名

制限選挙

女王の指名

定員

 

30

20

24

24

資格

年齢

 

21歳

21歳

25歳

21歳

居住年数

 

5年

5年

3年

5年

資産

 

規定なし

規定なし

不動産$3000か収入$600

規定なし

選挙人

年齢

-

-

-

20歳

-

居住年数

-

-

-

*3年

-

出生

-

-

-

布欧米

-

性別

-

-

-

男子

-

資産

-

-

-

不動産$3000か収入$600

-

能力

-

-

-

*布と欧米語を理解

-

宣誓

-

-

-

必要

-

例外規定

-

-

-

あり*

-

代議院

選出方法

 

男子普通選挙

制限選挙

制限選挙

制限選挙

定員

 

24〜40

24〜40

24

24〜48

資格

年齢

 

25歳

21歳

21歳

21歳

居住年数

 

1年

3年

3年

3年

出生

 

臣民と市民権を持つ外国人

臣民

臣民

臣民

性別

 

資産

 

規定なし

不動産500ドルか収入250ドル

不動産500ドルか収入250ドル

不動産500ドルか収入150ドル

能力

 

読み書き計算

読み書き計算

布と欧米語を理解,計算

読み書き計算

欠格事項

 

精神異常,白痴,破廉恥罪

精神異常,白痴

規定なし

精神異常,白痴

選挙人

年齢

 

20歳

20歳

20歳

20歳

居住年数

 

1年

1年

*1年

1年

出生

 

臣民と市民権を持つ外国人

臣民

布欧米系住民

臣民

性別

 

資産

 

税金を払っていること

不動産150ドルか収入75ドル

規定なし

不動産150ドルか収入75ドル

能力

 

規定なし

規定なし

*布と欧米語を理解

読み書き

宣誓

 

規定なし

規定なし

必要

規定なし

欠格事項

 

精神異常,破廉恥罪

精神異常,白痴,破廉恥罪

規定なし

精神異常,白痴,破廉恥罪

例外規定

 

規定なし

規定なし

あり*

規定なし

・1840憲法は細かい規定はほとんどない。実質的な規定はその後の「基本法」による。

・1893proとは,リリウオカラニが制定しようとした憲法の案。

*例外規定により *印の制限が適用されなくなる



マヘレ法


Sonia P. Juvikほか編
『Atlas of Hawai‘i』
University of Hawaii Press 1998 第3版

にマヘレ法についてのコラム(173ぺ)がありました。ちょっと読んでみると,おもしろかったので,全訳しました。


1848年のマヘレ法

 1848年のマヘレ法は,共有という伝統的なハワイの土地保有権を私的なものへと変更する法的な出来事でした。マヘレ(「分割」という意味)法以前は,ハワイの土地は個人的な所有物ではありませんでした。その代わり,すべてのハワイ人は,食物を育て,生きるために土地を使用する共有の権利を持っていました。土地は,食料の源として,水や空気のように生活に欠かすことができないものと見なされていました。だから,土地は,みんなのものでした。
 ハワイの神話では,ハワイの土地と人々は,母なる大地の神パパハナウモクと父なる空の神ワケエとの結婚によって生まれたことになっていましたから,土地は先祖とも考えられていました。土地と,広い範囲にわたる精錬された灌漑システム(lo`iと`auwai)は,maka`ainana(庶民)によって耕作されている間は,ali`i nui(大酋長)によって管理されていました。
ハワイの天地創造の神話によると,ali`i nuiは兄または一族の上位,maka`ainanaは弟または一族の下位で,すべてハロアを先祖に持つ同じ血統です。[訳注 以降ハワイ語は省略]一族の下位の仕事は,先に生まれた大酋長のために,土地の世話をすることです。それは,大酋長と土地にとって,下位の一族の食を養い保護する年長の一族の互恵的な仕事です。彼らの神に対する祈りと近い関係によって,土地の自然災害から人々を保護します。
 社会の分け前が土地に対して正しく振る舞われるときには,そこには世界の調和があります。よって伝統的な時代では,土地は先祖として調和し,個人的に所有することはできませんでした。だいたい,祖母を売買したりなんかできなかったのです。
 しかし1848年までにハワイ人は外国からの伝染病により大規模な人口減を被っていました。急速な人口減(1778年の約100万人弱から1848年には8.8万人に)は,カプーという伝統宗教の崩壊をもたらしました。1820年にニュー・イングランドからカルビン派宣教師がハワイにやってきて,〈キリスト教的西洋の生活様式への転換によって「新生活」が獲得できる〉と教えました。カルビン派宣教師たちは,〈伝統的ハワイの「多くの悪習」の中で一番悪いのは,土地の私有の欠如で,それが人口減の原因である〉と強調しました。英仏米の戦艦による「ハワイ王国占領」の脅しとその後の土地の喪失は,土地の共有制度を保持できず,大酋長たちはついに1848年のマヘレ法で土地の私有化に同意しました。アメリカのカルビン主義者ウィリアム・リチャードの監督の下,すべての土地の所有権が,様々な権利に分割されて与えられました。
 この事件は,ハワイのすべての土地を分割したので,よく「大」マヘレ法と呼ばれますが,土地の所有権が急速に外国人のものになったので,ハワイ人にとっては大災難でした。外国人には土地を買うお金がありましたが,ほとんどのハワイ人にはお金がなかったのです。また外国人は,ハワイ人にとっては馬鹿げた概念でしかない「土地の私有の価値と意義」を理解していました。
 1850年までに宣教師の政治顧問たちは,外国からの投資と資本主義経済の設立を促進することになる外国人が土地私有することを大酋長たちに認めさせました。一般民衆がおのおの1.2ヘクタールの土地を与えられたのに対して,カルビン主義の宣教師たちにはそれぞれ226ヘクタールの土地が許されました。10人の大酋長,24の酋長,218人の地頭は,50%の土地を手放して政府管理におくように求められました。政府管理の土地の大部分は,外国人に売られました。
 1893年までに,外国人が所有したり,委託された王室領などは,ハワイ全土の90%に達していました。1893年のハワイ政府転覆は,1848年のマヘレ法で始まっていたのです。一度アメリカのカルビン主義者がハワイの土地を私有できてしまったら,今度は政府も同様にコントロールしたくなったのです。

リリカラ K. カメエレイヒワ

 宣教師が果たした役割,土地所有の概念がなかったハワイの人たち(アイヌの人たちもそうだったのかも)などがよくわかりました。

(2001.10.10)


ハワイのお金


 「ハワイは独立国でしたから,独自の貨幣があったはず」とお金について調べてみました。









1883年発行 ハワイ王国1ドル銀貨

銀品位:900/1000
直径:約37.9mm 量目:26.73g

国章とカラカウア1世肖像。

「アイコインズ」より
http://www.rakuten.co.jp/icoins/

 すぐに見つかったのが,この銀貨。旗ではなく国章とカラカウア王の肖像。これは明らかに英国のコインを真似たものでしょう。手持ちのコインの本は新しいものしか載っていないので,古いものが載っているものを注文しました。

 ハワイは最初からドルを使っていたのでしょうか。

・ハワイ共和国?

 Neil Shafer & Colin R. BruseI編
 『Standard Catalog of World Paper Money Volume 2』 第9版
 Krause出版 2000年

 という紙幣のカタログには,ハワイの紙幣が載っていました。しかし,

 1879(1880)発行のハワイ王国財務省発行の10ドル銀兌換券には,なんと「ハワイ共和国」の文字が・・・。

 ハワイ共和国の成立は1893年以降のはず。これはいったいどうしたことでしょう。このカタログのミスなのでしょうか。


 さて,おもしろくなってきました。これは共和国時代の札なのでしょうか。しかし,この本には共和国時代の札は,別のものが紹介されているのです。






Hawaiian Islands Stamp & Coin (http://www.hisc.net/)で売られている1880年10ドル札は,上のものとデザインが多少違って,「ハワイ諸島」と書かれています。

 これはいったいどういうことでしょうか。

 "Hawaiian Money Standard Catalog, Second Edition" by Donald Medcalf and Ronald Russell
 を注文したので,そこに答えがあるかもしれません。



『Standard Catalog of World Paper Money Volume 2』 をよく読んでみると,「共和国時代の10ドル銀兌換券は,王国時代のそれに似ている」と書いてありました。

 どうやら,王国時代の10ドル札ではなく,共和国時代の10ドル札を誤って掲載したようです。


1847年発行1セント貨

-1884
・表 カメハメハ3世

・裏 「HANERI」は,「HANELE」の誤り。
1883年発行1ドル銀貨  ・表 カラカウア1世

・裏 国章,「AKAHI DALA」
1883年発行ハーフダラー銀貨 ・表 カラカウア

 裏 国章の盾紋,「HAPALUA」
1883年発行クォーターダラー銀貨  表 カラカウア

・裏 国章の盾紋,「HAPAHA」
1883年発行10セント銀貨  表 カラカウア

・裏 「ONE DIME」(=10セント),

   「UMI KENTA」

◎『Hawaiian Money』

Donald Medcalf, Ronald Russell 『Hawaiian Money Standaed Catalog』 Second Edition 1991 自費出版

 を購入したら,巻末に「ハワイの旗」という一章がありました。短いので全訳します。

ハワイの旗
『Hawaiian Money』より
 クック艦長の到来まで,ハワイ人は旗を使っていませんでした。彼らは識別の印に,王室を象徴するカヒーリ(棒の先につけた羽の筒),プエラ(カヌーの印)とマカヒキ(ローマ軍の鷲軍標に似た新年祭の長旗)を使っていました。バンクーバー艦長が1794年の航海でカメハメハI世にいわゆる「ハワイの英国への割譲」の合意の印として,英国旗を与えました。その旗はおそらくその時代の(海軍で使われていた)赤船舶旗でした。その旗は,スコットランドの聖アンドリュー十字とイングランドの聖ジョージ十字からできていました(赤地の左上四半分にデザインされていた)。カメハメハは,この旗を使いました。英国は「割譲」に対して何も行動を起こしませんでした。
 1816年にハワイの旗が最初にサンダルウッドを中国に運ぶフォレスター号で使われました。
 18年の間,英国領事リチャード・チャールトン大佐はホノルルでのあらゆることに立腹していました。彼は,英国がフランスや合衆国よりも先にハワイを英国のものとするように要求するよう説いて回りました。アレクサンダー・シンプソンが彼の後任になりました。ハワイは,彼が領事となるのを拒否,彼は英海軍に援助を求めました。1843年2月25日,ポーレット艦長率いる軍艦の砲がホノルル砦に向けられ,ハワイの旗は降ろされ,英国旗[訳注:Britania's standard]が掲げられました。すべてのハワイの旗は焼却されました。同年7月31日に驚いたトーマス少将は,ポーレットの悪政を終わりにすべくハワイに急行しました。
 1887年にサンフォード・ドールとロリン・サーストン,W.R.キャッスルに率いられた約400名のハオレ(外国人)は,カラカウア王に,王権を弱め,共和国設立かハワイ諸島を合衆国に提供するように務める新憲法にサインを強制しました。カラカウアは1891年に死亡し,王位を妹のリリウオカラニに譲りました。数ヵ月の辛い闘争の後,一握りの商人たちが,リリウオカラニ女王を廃位させるために委員会を作りました。スティーブン米国全権公使の共謀で,彼らはボストン巡洋艦より米軍水兵を上陸させました。1893年1月17日に,その委員会は暫定政府を樹立し王政を廃し,1894年には共和国を作りました。1896年に彼らはハワイの旗を採用しました。1898年8月12日,ハワイが領土として米国に併合されたときに旗は変えられました。46星の旗が掲げられ,ハワイの旗は降ろされました。1959年8月21日,アイゼンハワー大統領は,ハワイを合衆国50番目の州にする宣言書にサインしました。50星の旗は1960年7月4日までは公式のものにはなりませんでした。1959年1月3日にアラスカが州となった後,49星の旗が制定されましたが,その8ヵ月後にはハワイが州になったので,その旗は短命でした。ひとつの星が連邦への加盟を許可された翌年7月4日に加えられました。1776年以来,いつのときも合衆国の旗は法律で定められているのです。


 同書の「ばしめに」というところがハワイの経済史としておもしろいので,関連部分を翻訳します。

はじめに

 前世紀はハワイが世界で第一級の保養地であることを明らかにした。(中略)

 クック到達までのハワイには,貨幣システムはありませんでしたし,必要でもありませんでした。封建制のヨーロッパと同様に,ハワイには土地の私有制度はありませんでした。昔のハワイですべての土地の所有権は王のものでした。支配階級(酋長)もまた土地を所有していましたが,それは王の随意によるものでした。酋長は,代わる代わる,土地を庶民に区分けしました。土地はahupuaaシステムによって分割され,その中でそれぞれの村または拡張された家族(o’hana)が,山から海までを扇型に区切った区域で働きます。豚は高地で狩られ,湿地の谷はタロイモ栽培に適した環境を供給し,そしてもちろん豊富な収穫を与える海もあります。飢餓も貧困もハワイでは,戦争と干ばつのときを除いて,めったに起こりませんでした。庶民は土地利用税を織物や生産物,労働の形で支払いました。特別なアイテムは,みんなが持っていたわけでなく,個人的な交易によって手に入れていました。
 クック艦長の到着で,ハワイ人と外国人(ハオレ)との交易が急速に確立されました。釘や武器,鏡,その他の工業製品は酋長たちに高く評価されましたが,はっきりとした交換レート(例えば豚一頭=釘一本)が確立されたことはありませんでした。その後のあわただしいサンダルウッド交易(1800-1830)と後の捕鯨(1819-1860)は,世界中からハワイ諸島に金貨と銀貨をもたらしました。様々な大きさと形(しばしばひどく摩耗していた)の外国硬貨による当惑と混乱は受け入れられて,交易の主要手段として用いられるようになってきました。
 ハワイ(サンドイッチ諸島)の名前は米国とヨーロッパ中に広がり,外国人がハワイの海岸に居を構えるのは時間の問題でした。1820年にニュー・イングランドの宣教師団が到着し,続いて商業活動のための世界中からの流入がありました。いまだその中心が物々交換だったハワイ経済は,流通する法的貨幣の決定的欠乏によりひどく制限されていました。プランテーションの労働者に支払うために,企業はプランテーションの売店で使用できる専用の代用紙幣や硬貨を発行することが許されていました。スペインの8リアル硬貨「ビット」は一般的でしたが,いつも供給が足りませんでした。
 しかし徐々にハワイの産業界は米国の金銭的価値がある貨幣について考え始めるようになりました。このことは,ハワイにおける米国の優位性と,ハワイ人の生活様式における宣教師の影響を考えると,当然の成り行きでした。財務大臣は定期的に硬貨の交換比率表を発行し,外国硬貨と米国ドルとセントとの価値を比較して示しました。
 少額貨幣の不足を軽減するために,ハワイ政府は1847年カメハメハ3世の元で,最初の公式鋳造硬貨として大きな1セント銅貨を発行しました。しかし,その額面が少額過ぎたため商人の間ではあまり使われませんでした。
 サンダルウッドの森の消滅と捕鯨産業の衰退で,ハワイは新しい資源として砂糖に目をつけました。フィリピン,キューバなどとの競争と合衆国のような輸入国がかける高額の関税により,ハワイはサトウキビ産業の投資には魅力のない土地にされました。後でその成功により悪徳資本家とラベルを貼られる少数の先見の明ある企業の冒険家が,ハワイの砂糖産業に肯定的でした。その中のひとりが,ひどく中傷されたクラウス・スプレックルスでした。彼は,気絶して何もできない状況にある間に,評判と多額の資本をハワイの砂糖産業に注入しました。ハワイ経済の見通しは暗いように思えました。しかしカラカウア王が1875年1月の互恵条約で合衆国へのサトウキビの無関税輸出を手にしました。うわべは取るに足らないものであっても,この条約は成功と失敗を明らかに分けました。その影響は根深いものでした。破産寸前のプランテーションは寿命を延ばされ,,新しいプランテーションが始められ,古いプランテーションは拡張し,そしてもちろんスプレックルスは大金持ちになりました。強調すべき点は,彼は1882年にはサトウキビを合衆国へ2400万トン輸出したということです。わずか7年前の1875年,ハワイのすべてのサトウキビは2500万トンだったというのにです。
 カラカウア王の治世(1874-1891)の間の砂糖好景気と同時に,ハワイは総合的な法定通貨の制度を獲得しました。政府は,1879年から80年にかけて紙幣を発行しました。額面は10ドルから500ドルで完全な金銀兌換券でした。一番よく知られていて評価されているハワイの法定通貨は,1883年のカラカウア鋳造貨幣です(額面総額は100万ドル)。10セント,25セント,50セントと1ドルコインが,サン・フランシスコの合衆国造幣局で当時の合衆国硬貨と同じサイズと重さ,純度になるようにして作られました。
 ハワイ王国発行のの紙幣とカラカウアの硬貨,様々な私的な代用硬貨は,お金の問題をより一層ひどくしました。健全な貨幣の基準が経済安定のために必要になり,1884年に「米国とハワイの10ドルまでの銀貨を法定貨幣にする」という法律が成立しました。米国の金貨はいくらのであれ法定通貨でした。外国の硬貨は,地金の価値としてだけ扱われました。
 ハワイ王朝は1893年1月17日に崩壊させられ,その後しばらくの間暫定政権で,1894年7月4日ハワイは正式に共和国になりました。ハワイ共和国時代を通じて,紙幣が発行されました。でもそれは短命で,1898年8月12日にハワイは米国に併合され,1900年6月14日に正式に米国領土となりました。1904年でハワイの硬貨は法定通貨ではなくなり,回収されて融かされました。1905年までには,もはや紙幣は価値のないものになりました。米国領土時代,三種類の紙幣が発行されました。1900-33の米国通貨紙幣,1933の不景気紙幣,1924-44のハワイ加刷紙幣,それと商人,パン屋,軍隊,学校の何百もの代用硬貨が使われました。連邦議会でハワイ州を成立させる多くの努力が失敗した後,ハワイはついに50番目の州として熱狂的に迎え入れられ,1959年8月21日に米連邦の一番新しいメンバーとなりました。州になった後,何百ものメダルや代用硬貨が,行事や優れたハワイ人を記念して発行されました。
 (後略)



ハオとハオレ

 米国在住のパトリック・カアノイさんは,現在もハワイの酋長としての権利を引き継ぐ家系のハワイ人です。彼とメールで毎日のようにやりとりするようになってから,毎日が英語との格闘ですが,たのしいです。あるとき次のような話がありました。

 ハワイには貨幣も金のような貴金属も宝石もありませんでした。酋長は富ではなく,彼の住民に愛されているかどうかで評価されていたのです。もし悪い酋長がいたなら,そこの住民には,ほかの酋長の元へ移動する権利がありました。それでよい酋長とは,愛されている酋長のことだったのです。

 そこでボクが「ハオ(鉄)は貴重なものではなかったのか」と質問したのがきっかけです。


 昔のハワイでは,鉄を意味する言葉は「メキ」です。「ハオ」は「硬い」という意味です。

 鉄はハワイ人にとって重要な貴金属でした。J.F.G. Stokesの『初期のハワイ人と鉄』によると,鉄は日本からハワイに流れ着いたと言うことです。

 クック艦長が来たとき,ハワイ人はクック艦長の鍛冶屋が作った短剣を特に求めました。それまでハワイは石器時代だったのです。

 さらにボクは「ハオレ(外国人)」という言葉は,「ハオをもってくる人」という意味ではないのかと尋ねました。

 クック艦長が来たときにハワイで使われていた鉄を表す言葉は「メキ」です。

 現代のハワイ語で鉄を表す「ハオ」は,「ハオレ」の一部分ではありません。ハオレは「外国人」を表す言葉で,現在は「白人,米国人,英国人」も意味しています。

 ハオレの意味は,ha(=息)と`ole(=without)が合わさったもので,「息がない」ということです。なぜ外国人が「息がない」と呼ばれるようになったかというと,ハワイ人は互いに顔と顔をくっつけて鼻から息を吹きかけて挨拶します。これは「アロハ」の儀式です。外国人はこの儀式を知らなかったので,彼らは「アロハがない」ですし「息なし」でもあったのです。alohaとhaoleが組合わさったaloha`oleは「愛がない」ということになります。

 ここでボクは「aloha`ole」をリリウオカラニ女王が作った有名な歌「aloha`oe」と勘違い。しかし歌の方は「aloha(さようなら) `oe(あなた)」でした。

 ボクの「ハオレのハオは鉄」仮説は間違いだったのです。(2001.11.30)


ハワイと鉄

 いろんな文献でクックがハワイに到達したときの「鉄」についての記述を調べてみます。


・Gavan Daws 『Shoal of Time   a History of the Hawaiian Islands』 University of Hawaii Press 1974より

1ぺ
 リゾリューション号に近づいてきたカウアイのネイティブは最初はとても緊張していましたが,友好的でした。彼らはいくつかの石のほかは,何も武器を持って来ませんでした。その石も,クックが害をなす意図がないと知るや投げ捨ててしまいました。彼らは船に上がろうとはしませんでしたが,交易か贈り物の交換をしたがっていました。いくつかの真鍮のメダルがロープの先端につながれて降ろされました。いくつかのの小さな小片が降ろされたとき,彼らはお返しに魚とサツマイモを送ってきました。

2ぺ
 二隻の船が丘の上に集まったネイティブの群衆の前を過ぎようとしたときに,海岸にはさらに多くのカヌーが交易のために出てきましたので,クックは鉄釘と生きた豚とサツマイモと交換することができました。

3ぺ
 ちょうど武装した隊が,ワイメアでの上陸地点を探しに,リゾリューション号のボートで出かけていたときに,ひとりの原住民が屠殺用の大包丁を盗み,待っていたカヌーに飛び乗り岸へと逃げました。ディスカバリー号からのボードが追跡に向かいました。追跡した下士官のアイルランド人のジョン・ウィリアムソンは鉄砲を一発撃ち,興奮した彼の部下達は彼の命令に背いて一斉射撃をしました。何人かのハワイ人は,おびえてカヌーから飛び出しましたが,ウィリアムソンが彼らに追いついたときは,泥棒は大包丁と共に岸へと逃れた後でした。
 原住民達はボードに向かって石を投げ始めたので,彼を捕らえるためには何もできそうにありませんでした。ウィリアムソンは諦めて,上陸場所を探す仕事に戻りました。最初に彼が接岸しようとしたとき,原住民の大集団が浅瀬に押し寄せ,彼のボートを取り囲み,ました。ボートによじ登り,オールやマスケット銃など彼らが手につかめるものはなんでもつかんで強く引っ張りました。ウィリアムソンは,彼らが自分たちを殺そうとしたり傷つけたりする意図はないと思いました。彼らのうち何人かは,一本か二本の鉄釘で満足しているようでしたが,残りは大荒れでボートをひっくり返しそうでした。船首のひとりは,ボートのフックをつかんで,一本ではそれを離そうとはしませんでした。

4ぺ
 その日の交易もうまくいきました。ハワイ人は「盗んで逃げることが不可能だ」とわかってしまうと,彼らの大半はよい交易者となりました。釘と鉄の小片の交換でクックの部下は14ポンド(訳注:εキログラム)ものサツマイモ,バナナ,タロイモ,鶏と60から80頭の豚を手に入れました。

5ぺ
 最初からハワイ人は,船のどんなものよりもに魅せられていました。彼らはどんな金属も採掘してはいませんでしたし,「」を表す実際の名前も持っていませんでしたが,彼らはそれが何であるかを知っていたのです。クックはこの南太平洋におけるパラドックスを理解しました。彼は初期の探検家達があちこちでを残し,原住民が島々をめぐる旅でそれを手にしたか,最低でもそれについての言い伝えを聞いたのではないかと推測しました。実際,カウアイは隔離された島で,リゾリューション号とディスカバリー号以前にヨーロッパの船が立ち寄った形跡は全くありませんでした。たとえそうでも,スペイン人が250年前に北太平洋を航海しましたので,壊れた部品や捨てられたものが海岸に流れ着いたことは疑いようがありません。カウアイの住民がたしかにふたつのの小片を所持しており,「それらは東の方,海から来た」と言っていたことがわかっています。彼らはどん欲にを求めました。ディスカバリー号のチャールズ・クラーク艦長は,一本のふつうサイズので彼らの船一日分の豚を手に入れることができ,サツマイモやタロイモならもっとたくさん入手できることに気がつきました。カウアイの市場は,彼が経験した中で最高のところだったのです。
 クックのを積んだ船の知らせが島中に広がったとき,原住民は交易のためワイメアに群がりました。

6ぺ
 1月29日になってクックはカウアイに戻るのを諦め,新鮮な水と停泊場所を求めてニイハウの海岸を探索しました。ニイハウの人々はカウアイの人々同じく,彼の大きな船に驚き,また同様にに関心を示しました。



・R.S.Kuykendall 『THE HAWAIIAN KINGDOM Vol.1』University of Hawaii Press 1953 より


13ぺ
 カウアイの南西から南の海岸に沿って船はゆっくりと進んでいたとき,何隻かのカヌーがやってきました。彼らは船底に石をもっていましたが,その必要がないことがわかると石は船外に捨てられましたカヌーには魚が積んであり売るつもりのようでした。この下調べからハワイ人は,よそ者は食料と交換するために与えるを多量に持っていることを学びました。原住民はわずかな鉄の小片(*2)しか持っておらず,船に豚,タロイモ,芋などの土地の産物を持ってきては,その貴重な金属を熱望しました。ディスカバリー号のクラーク艦長は次のように証言しています。「これは今まで見たこともないような安い市場だ。普通のサイズの一本で,一日部下に十分な量の豚肉を食べさせてやることができる。芋やタロイモについて言えば,もっと割がよい。これも彼らがにどん欲なおかげだ」。(*3)この取引は本質的に滑稽なほど不平等,しかし,その時点において,ハワイ人達が彼らが交換に差し出したものと彼らにとって同じ価値のものを受け取ったことは疑いようもない。しかし,一本ののために原住民が差し出すものには,ある限度がありました。キング下士官は次のように記録しています。「彼らは何頭かのとても大きな豚を持ってきたが,それらに見合う大きさのはもうなかった。」

*2 「この鉄はどこからきたものか」という疑問について,J.F.G.ストークスは「初期のハワイ人と鉄」(ハワイ歴史研究会紙18号,6〜14ぺ)で「日本から漂着したもの」と考えている。


16ぺ〜17ぺ
 外国の船がケアラケクア湾に投錨したとき,年老いたカラニオプウ王はマウイ島にいたが,1月25日の午後には戻ってきて,船に非公式式訪問をした。次の日,彼はクック艦長に儀礼的訪問をし,彼と名前を交換し,いくつかの羽のマントと多量の豚,サトウキビ,ココナッツ,バンノキの実を贈った。クックはお返しとして,カラニオプウにリネンのシャツ一着とを一本贈った。後にクックはカラニオプウに,航海記の記述によると,「道具箱一式」を別に贈った。王は,同様にディスカバリー号のクラーク艦長とも贈り物を交換し,二隻の船がケアラケクア湾を離れるちょうど前には,クック艦長は,王からタパ布,羽毛,豚,野菜からなる大量で価値のある贈り物を受け取った。彼らが留まっている間,両艦は,主に鉄のため,その多くは,ハワイ人が使っていた木製の剣(パホア)の形通りに船の鍛冶屋が作った長い鉄の剣(*13)のために支払われた多量の新鮮な食物であふれていた。原住民達は,船の鍛冶屋が働いている様子を見ることを許され,その観察から鉄の実用的価値の知識を深めた。(*14)

*13 これらの鉄製の剣(約2フィートの長さ)はとても需要が多かった。「クック艦長とクラーク艦長は,これらの危険な武器を酋長の求めに応じて作らせ,様々な場で彼らに与えた」ベイリー,1779.2.14。嵐によりリゾリューション号のマストが折れてケアラケクア湾に戻ったとき,カメハメハがディカバリー号に乗船してきて,彼が着ていた赤い羽毛のマントを売るかわりに鉄製の剣を求め,マントの代わりに7本の短剣を得ました。エドガー,1779.2.11とロー,同日。サムウェルは「彼は9本入手した」と『ニュー・サウス・ウェールズの歴史記録』第一巻,第一部,452ぺで言っている。

*14 この航海の公式記録第三巻131ぺの興味深いコメントを参照のこと。この点で,トレビネンは次のように記している。「鍛冶場は,鉄から様々な求められるものができる様子の全体を見ることができるように甲板に設けられた。その結果,翌日海岸で,ふたつの大きな石を加工のための金床とハンマーとして用意して,鉄片を大火で熱しているのが見られた」。ブリティッシュ・コロンビア公文書館のコピーより,ハワイ公文書館でコピーして出版されたクックの第3航海記の脚注に書かれたジェームズ・トレビネンの記述より。ジョージ・ギルバートの『ジェームズ・クック艦長の死』ハワイ歴史研究会 再版 第5号,29ぺも参照のこと。


・James Cook著 John Barrow編
『CAPTAIN COOK VOYAGES OF DISCOVERY』より


(カウアイ島にて)
「交易のために上陸するやいなや,我々の足元は,のみのような形にした釘や鉄の小片との交換のために住民がくれた豚や芋でいっぱいになった。」

(カウアイ島からニイハウ島に初めて向かったとき)
「6隻か7隻のカヌーが,子豚と芋,大量の山芋とマットを持って,我々が碇を降ろす前にやってきた。ここの住民はカウアイ島の住民に似ていて,鉄の使用については同じぐらい知っているらしく,この高貴な金属のために日用品をすべて引き替えにしても,同様にハマイテ,トゥーといって求めた。」

「我々の到着前に,彼らが持っていた唯一の鉄器,もしくは鉄の小片は,木製の柄に取り付けられた,2インチぐらいの大きさの鉄製の輪と,我々が広刃の刀の先端から作ったのであろうと想像した別の刃物だけだった。それらがどのようにしてもたらされたのかは,説明できない。」


 「のみのような形」というところがとても興味ぶかいです。「実用品として釘を求めた」という感じが強くします。


・「ハマイテ」と「トゥー」

 パトリックに「ハマイテやトゥーはどういう意味か」と聞いてみました。すると,

 「ハマイテは,おそらくハンマーのことではないか。トゥーは,Ko`iで,手斧(adz)の意味です。ハワイ語ではTはKに置き換わります。クックは`Iをeとして聞いたのです。」と教えてくれました。

■ハワイ併合合同決議文

 米議会の合同決議文を翻訳します。

 原文はhttp://www.pixi.com/~kingdom/jr55.html

合同決議

合衆国へのハワイ諸島併合に備えるために

 ハワイ共和国政府が,ハワイ諸島とその領土に関わるすべての主権と共和国と政府,王領地,公共の建物,港湾,軍施設とそのほかハワイ諸島政府に属するすべての種類のものとそれらに従属する権利,そして,すべての債務と所有権を,憲法に沿った方法により,アメリカ合衆国に無条件に引き渡すことに正式に同意を表明したゆえに,

 アメリカ合衆国上院は次のように結論した。割譲に同意し,批准され,正式に確認され,ハワイ諸島とその領土は,ここに自治領となるを前提に合衆国領土の一部として併合され,それに関するすべての資産と権利は合衆国に授けられる。

 公有地に対する合衆国の現在の法律はハワイ諸島の土地には適用されないが,合衆国議会は,それらの土地の管理と譲渡について特別な法を作るものとする。そこからの収入や利益は,その部分が合衆国の民間や軍関係の目的で占有されていると見なされない限り,,教育や公共の目的のためにハワイ諸島の住民のためだけに使われるものとする。

 議会がハワイ諸島政府のために,その政府の官僚による公権力,司法,軍事力を準備するまでは,合衆国大統領の直轄とし,大統領が官僚を任免するものとする。

 現存するハワイ諸島と諸外国の条約は直ちに終了し,現存するか将来締結されるであろう合衆国と諸外国との条約に置き換えられるものとする。廃止される諸条約によって成立しなくなったり,この合同決議に矛盾したり,合衆国憲法や現存する合衆国の条約に反したりするハワイ諸島の国内法は,合衆国議会が別に決定するまでは有効とする。

 合衆国の慣習法と規定をハワイ諸島に拡張する法律が成立するまでは,現存のハワイ諸島と合衆国並びに諸外国との慣習的関係は変わらないものとする。

 この合同決議通過日現在の法的なハワイ郵便貯金を含むハワイ共和国の債務は,ここに合衆国政府に引き継がれるが,これについての合衆国の負債は決して400万ドルを超えないものとする。しかしながら,政府とハワイ諸島との商業的関係が存在する限りは,政府はその債務の利息を払い続けるものとする。

 合衆国の法により許可されない限りは,ハワイ諸島への中国人移民は今後できないものとする。どんな中国人もハワイ諸島から合衆国への入国は許されないものとする。

 大統領は,適切,必要と判断されるとき,合理的速やかにハワイ諸島に関する立法措置を議会に勧告する5名の委員を指名することとする。委員には少なくとも,2名のハワイ諸島住民を含むものとする。

第二項 上記の委員は上院の助言と同意により大統領が指名するものとする。
第三項 合計10万ドルか必要なだけの資金を,財務省が割り当てた資金のほかにアメリカ合衆国大統領がこの合同決議遂行の目的のために自由裁量で使える資金としてここに割り当てるものとする。

SEREXO E. PAYNE
下院臨時議長

GARRETT A. HOBART
上院議長,合衆国副大統領

1898.7.7承認
ウィリアム・マッキンレー

■ハワイの旗の日

 ハワイで重要な祝日は「カメハメハの日」「レイの日」と「旗の日」です。では,旗の日についての記事をパトリックが送ってくれたので,翻訳します。


2002.7.30
ハワイ島のヘイアウに王の旗

「ホノルル・アドバタイザー」紙より

 カメハメハ1世によって命じられた規格に基づいて作られたハワイの旗が,明日「ハワイの旗の日」を祝うために,プウコホラ・ヘイアウ遺跡国立公園に掲げられる。
 ハワイの旗についての10分間のビデオが午前9時から午後1時までの間,繰り返し上映されます。また,最初の「ハワイの旗の日」の写真も展示されます。上映されるビデオは,歴史家のパトリック・カアノイさんが制作されたものです。
 1793年カメハメハ1世は,ジョージ・バンクーバー艦長と,ハワイ諸島を英国の保護下に置くことに合意しました。「国立公園だより」によると,その合意のシンボルとして,英国のユニオン・ジャックがハワイ諸島中に掲げられたということです。
 1816年に,カメハメハは,ユニオン・ジャックと8つの主要な島を表す8本の赤・白・青の縞を組み合わせた国旗を作りました。
 ダンテ・カーペンター前ハワイ島市長は1988.7.31に「最初のハワイの旗の日」を宣言しましたが,そのルーツは,1843年にまで遡ります。
 歴史家によれば,ジョージ・ポーレット卿は「カメハメハとバンクーバーの合意は恒久的英国支配を意味する」と思い込み,「すべてのハワイの旗を取り去って,代わりにユニオン・ジャックを掲げるように」と命令しました。
 ポーレットの命令を取り消し,王国を復活させるべく,リチャード・ダートン・トーマス提督が英国からハワイに派遣されました。隠されていたハワイの旗が取り出され,この事件を祝うためにハワイ諸島中に掲げられました。
 1843.7.31に,提督を称えて命名された現在ホノルルにあるトーマス・スクウェアにその旗が掲げられました。
 その日の午後,カワイワハウ教会で,ハワイの独立が再び戻ったこともかねて,カメハメハ3世が有名なモットー「この地の主権は正義のうちに保たれる」を宣言しました。

Article url: http://the.honoluluadvertiser.com/article/2002/Jul/30/ln/ln30a.html


王国旗と州旗の違い

 上記の記事で王国旗と州旗の違いが気になったボクはパトリックに質問してみました。以下が彼の答えです。

 毎年7/31にハワイ島のプゥコハラ・ヘイアウに展示されるハワイの旗は,いくつかの点でハワイ州旗とは違っています。

1. 公式な比率の1:2(3フィート×6フィート)
2. 色が濃い(星条旗の赤と青)
3. 州旗として展示されているわけではなく,ハワイ州ではなく,ハワイ民族(the Hawaiian Nation)のみを表している。
4. ハワイの儀式に捧げられたものである。

 王国旗と同じ比率のハワイ改正州法で規定されたハワイの旗は,州旗としてハワイ州政府の行政機関で使われるように認定されている。店にあるハワイの旗は,たいてい3:5の比率のものである。



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